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「戦争画」の生みの親達。 『絵筆のナショナリズム フジタと大観の戦争』

五島美術館で6月21日まで開催されいた「近代の日本画展」。その中で個人的に目を引いたのは横山大観の「竹外一枝」と言う作品でした。作成されたのは昭和21年、大観が戦争画の指導者という立場についてGHQからは不問とされながら、一方で世間では美術家の責任が喧しく議論されている時期でした。
一見涼やかな水墨画でありながらそこに描かれる竹と梅の関係は、騒がしい世間に対して一人静かに過ごす大観自身を描いているかのようでもありました。


flymetothemoon.hatenadiary.com

上記の記事を書く中で見つけた『絵筆のナショナリズム フジタと大観の戦争』を読みました。

絵筆のナショナリズム―フジタと大観の“戦争”

絵筆のナショナリズム―フジタと大観の“戦争”

「彩管報国」は国家へのおもねりであったのか。


本書は明治以後の近現代日本の芸術とナショナリズムの関係をたどっていくという内容です。
その中でも横山大観藤田嗣治、二人の巨匠の画歴と言葉をたどることで、彼らが戦前・戦中・戦後において「日本」と芸術に対してどのような心情を抱いていたのかを明らかにしています。日本画と西洋画、国内と欧州と一見交わることのない経歴を持つ二人がどのような心性をもって「彩管報国」運動に収斂していったのか、ということがメインテーマの一つとなっています。


出身水戸藩国学の伝統と東京美術学校からの師岡倉天心の薫陶を併せ持ち「気韻生動」を標榜し、「日本の美」を描くことを目指した横山大観
彼は1930年の日本ローマ展での使節団長、1937年の第一回文化勲章受賞と国家による権威をその身に受けてきた人でした。本書では画家としてのピークを過ぎた大観が、国家が必要としている「日本の力強い美」と言う物語を利用し、「富士」と「海」といった画題に過剰に吹き込むことによって、衰えつつある絵の迫力を誇示しているのだと指摘します。


パリでの活動の中で面相筆による細密な線描と独特な白という「欧州における日本の美」を武器としてのしあがった藤田嗣治
ベル・エポックが終わり日本に戻ってきた彼は欧州での成功の一方で、母国ではその成功に比する地位を得ることができていませんでした。本書では松田改組によって日本画壇に地位を得た藤田が、軍国の画壇のリーダーと言う立場に酔いしれるかのように行動するさまを描き出しています。


本書で描かれる二人は、その画才にくらべて社会的責任に対する浅慮さがあったために彩管報国運動のリーダーの立場に立ったかのように描かれています。日本が戦争に巻き込まれていく状況を自らの美学をしらしめる環境とみて、その流れに自ら歩みを合わせていく画家の姿が見て取れるのです。


その一方で、彼らの戦後の行動を見ていると彩管報国運動で描かれた作品に描かれた美への信念は本物であったのかもしれないとも感じます。
大観は大日本美術報国会の会長として戦争画作成の指導的立場にあったことをGHQから許された後、再び「日本の美」の独自性を強調し、戦後の代表作「或る日の太平洋」を始めとする富士山と海の作品を描き始めます。
藤田は「戦争画を集めた展覧会を開きたい。」というGHQ関係者の依頼を受けて終戦後すぐから、散逸してしまった戦争画の収集活動を開始しています。その後の紆余曲折を受けて、最終的にフランスへ追放されることになる藤田嗣治の日本での最後の活動です。


奇しくも松本竣介が新聞へ投書した「戦争画家は転向せずに、引き続き戦争画をかけばいい」と言う指摘を、この二人は実践しようとしていたかのようです。
そういった意味では、大観と藤田という二人の画家は戦争を通じて自分の評価を引き上げようという意図はあったのかもしれませんが、画家として本人が許せない作品を時流におもねって描いていたというわけではなさそうです。


本書でもう一つ興味深かったのが、忌避された芸術についての語りです。
本書では谷崎潤一郎の『細雪』が連載の中断を余儀なくされたことを例として、同じ日本的な美でありながら、儚さ・優美さを前面に押し出した「軟弱」な芸術が忌避されたということを述べています。
確かに今年弥生美術館で開催されていた「橘小夢展」においても、版画集が発禁処分を受けた理由は画家が描く耽美な世界が問題視されたからではないかと語られていました。(ただし、橘小夢が発禁処分を受けたのは1932年なので、『細雪』連載中断の10年以上前となります。)


また、横山大観が自らの美学「気韻生動」を語るのと同時に、望ましくない絵画のことを「病んだ絵」と表現していることも興味を引く点でありました。
望ましくない芸術について「不健康・病気」を見出すことは、上にあげたナチス・ドイツの芸術政策の書籍でも触れられていたことです。しかし、横山大観が「病んだ絵」と表現した絵画は西洋的な写実にもとづいた絵画のことであり、リアリズムを至高としたナチス・ドイツの芸術政策からは真っ向から反するものでした。
確かにその理想を突き詰めると「美しいものをより美しく、力強いものはより猛々しく」といった理想に収斂されるのですが、その出発点が「創作性あふれる近代芸術の否定」と「現実を写しとる近代芸術の否定」という相反するところから出発する語りは芸術と善悪を結びつけることの不条理さを物語っているようです。


本書で描かれていない視点として、軍部・政府の「聖戦美術展」「大東亜戦争美術展」に対する思惑など画壇の外の動きがあります。「時局に相応しい」芸術と「時局に相応しくない」芸術がどのように決定されたのか、その内情も是非知りたいと思いますがなにかよい本があればいいな。

モデルの彼女と素の彼女 「山口小夜子 未来を着る人」展@東京都現代美術館

東京都現代美術館で開催されていた「山口小夜子 未来を着る人」展へ行ってきました。


山口小夜子氏は1970年代から80年代を中心に活躍したファッションモデル。
高田賢三山本寛斎三宅一生といったデザイナーのショーに出演し、パリ・コレクションにも登場した日本人女性モデルの走りのような方だそうです。
1980年代後半にファッションモデルの一線を退いてからは、ダンスや演劇、ファッションデザインと様々に活躍の場を広げていて、さらにはインスタレーションや映像芸術への参加もしていたということで今回の回顧展が開催されたということのようです。


展覧会の前半は、モデルとしての山口小夜子の功績を追うパート。
様々なデザイナーのファッションショーでランウェイを歩く山口小夜子の映像・ファッション雑誌のグラビア・そして専属モデルを務めた資生堂のポスター等が展示されていました。
後半はモデルとして一線を退いてからの活動。
ダンス作品や人形演劇への出演映像、山口小夜子がデザインしたファッション、そして各地の芸術祭にも出品された映像作品やインスタレーションの記録などが並べてありました。
その他に彼女のスクラップブックや蔵書、レコードなどの展示。そして山口小夜子の没後、彼女にインスピレーションを受けた人々によるアートの展示も行われていました。


ファッションモデルの回顧展は初めてですが、普段美術館で開催される芸術家の回顧展とは一味違う雰囲気がありました。
ほとんど全ての展示に山口小夜子のイコンが含まれていることがその一因でしょう
そのために普段意識のうえに昇ることのない「美術作品におけるモデル」の存在について考えが及ぶことになりました。


モデルという存在は美術館という場においては造形・被写体として存在することがほとんどです。芸術家との特別な関係がある場合にのみ、「これは芸術家の〇〇である……」として触れられる場合がありますが、多くの場合にはモデルは匿名の存在です。
ファッション業界の場合は少しモデルの顕名性が上がるようにも思われますが(特に雑誌等メディアにおいては、個々のモデルが取上げられることが多いかと思います)、ファッションショーにおいてはやはり衣装が主役であり、衣装を引き立てるようにランウェイを歩くことが求められるようです。


今回の展覧会で「人間としてのモデル」にフォーカスが当てられる時、そこから見えてきたのは「モデルとして持つイメージ」と「素のモデル」の差異だったように思います。
山口小夜子」展の作品のほとんどにおいて山口小夜子は被写体として登場します。そのビジュアルから得られる印象は、アーティストのフィルターによって成型されたもののようにも思われました。


中村誠やセルジュ・ルタンスのイメージする山口小夜子


天児牛大がイメージする山口小夜子


生西康典+掛川康典がイメージする山口小夜子


そして死してなお、彼女の姿はアーティストのイマジネーションを刺激し、今回の展覧会でも山口小夜子をテーマとした近年の作品が紹介されています。山川冬樹氏の福島での踊りは山口小夜子の仮装をして踊り、山口小夜子と自身を一体化させるということまでしています。
アーティストが抱いた山口小夜子のイメージは、エキセントリックであり、伝統的であり、日本的であり、無国籍風であり、しなやかであり、ミステリアスであり。一見相反するイメージが共存する彼女の容姿が様々な作品を生み出す素となったのでしょう。


その一方で、今回の展覧会では山口小夜子の私物が展示されていました。
中原淳一の雑誌やレコード、ファッション雑誌のピンナップ、そして人形のコレクション。
そして彼女自身がデザインした演劇衣装や、彼女の企画した着物のファッションショーの映像もありました。


そうした展示からは、アーティストが投影するイメージとは異なった山口小夜子のもう少し素朴な面、というか人間的な部分というものがうかがえるような気がしました。
しかしこうした側面からの展示はあまり多くはなく、結局山口小夜子という人はどういう人だったんだろうという疑問は少し残ったようにも思われます。
その象徴として、今回の展覧会では山口小夜子の映像がたくさん出てくるのですが、私が彼女の声を聞いたのは最後の展示、山口小夜子による朗読劇の中でした。おそらく途中の人形劇の中でも聞けたのだと思いますが、それにしてもこれだけ彼女の映像があって彼女自身が発する声の少なさに気づいて少し驚いたものです。


様々なアーティストの想いを「着た」山口小夜子の後ろに見え隠れする素の山口小夜子の影が印象に残る展覧会でした。

『ヒトラーと退廃芸術』 あるいは、MoMATには戦争画展を開催してほしいという話。

久しぶりのブログ更新です。


今回は最近読んだこちらの本についてです。

ナチスドイツと芸術

本書はナチス・ドイツの芸術政策について「大ドイツ芸術展」と「退廃芸術展」を比較しながら考察していくという内容です。
表題にはヒトラーとありますが、それよりもナチスにおける芸術支配の体制やナチスに対する芸術家の対応などが描かれています。


本書で描かれるナチスドイツの芸術政策の特徴はなんといっても「反近代芸術への大転換」といえるでしょう。


ナチスドイツの理想とした芸術があまりにも古典的であったために、当時活躍していた芸術家があらかた失脚しています。
これはユダヤ人に出自を持つドイツ芸術界の重鎮マックス・リーバーマンは勿論のこと、第一次世界大戦で戦死したフランツ・マルクやアウグスト・マッケ、ナチ党員であったエミール・ノルデさえも例外ではありませんでした。
代わりにナチス時代の芸術界の中心となったのが、帝国造形芸術院長官のアドルフ・ツィーグラーです。本書では彼を凡庸な裸体画家と断じています。本書の図版ではよくわからない点も多いので美術的な評価を私自身で下すことは難しいですが、少なくともナチスが権力を掌握する以前は全く無名でありながら、ヒトラーに評価されたことに寄ってナチス・ドイツ体制での芸術政策の推進者となることができた人物です。


ヒトラー自身が古典的、あるいは時代遅れな芸術観を持ち近代美術の潮流を敵視していたがために、ナチス芸術をドイツ美術史の中から切り離すことができるような転換と揺り戻しが発生しました。このため他のナチ党幹部、特に宣伝省を担当し芸術性作に関与したゲッペルスヒトラーとは異なり近代芸術にも理解を示していてもなお、ナチス芸術の動向に影響を与えることはできませんでした。
ヒトラー独裁の影響をもろに出たこの状況こそが、ドイツにおける第二次世界大戦と芸術の関係といえるでしょう。


こうした芸術界の全てを入れ替えるような大転換は、戦後においては全く逆の方向に作用し、退廃芸術に指定された芸術家たちは復権する一方でナチス時代の芸術は1970年代の大ドイツ芸術展再現まで全く封印された状態となります。アドルフ・ツィーグラーも非ナチ化裁判では無罪となりましたが全く失脚し、芸術家としては顧みられることのない存在となってしまいます。
あまりにも美術史の中から断絶しているがゆえに「退廃芸術」というキーワードで通り一遍触れるだけで語ることができてしまう、そこから更に踏み込もうとすると美術としてより歴史としての課題となってしまうというのがナチス芸術に対する現況のようです。

軍国日本と芸術

このようなナチスドイツの本を読むと当然考えるのが、「大戦期の日本はどうだったのか」ということです。


第二次世界大戦において日本でもプロパガンダとして芸術が利用されていましたが、ドイツと大きく異なるのが既存の芸術の枠組みを元に戦争画が制作されていた点でしょう。


そして軍国日本の美術政策に協力した大立者といえば、横山大観藤田嗣治の二人です。
横山大観は大日本美術報国会会長という立場につき、絵の売上をもとに戦闘機を寄付したこともありました。
藤田嗣治は陸軍美術協会副会長として「アッツ島玉砕」や「サイパン島同胞臣節を全うす」といった大作を発表しました。
他にも宮本三郎・鶴田吾郎・小磯良平川端龍子といった錚々たるメンバーが戦争画を作成しています。


勿論戦後に彼らの責任を問う声もありました。
宮田重雄の「美術家の節操」という論説や、プロパガンダに協力せず戦中に苦しい活動を強いられた「新人画会」のメンバー松本竣介の批判がこの代表でしょう。
しかし藤田嗣治がフランス国籍を取得し日本を捨てた以外、表立って責任をとった画家は居なかったように思われます。
横山大観は1951年に文化功労者に選ばれ、死に際しては正三位勲一等を授与されていますし、ほかの戦争画家たちも続々と名声と栄誉を得ています。藤田嗣治横山大観をはじめこれらの画家が戦争画を描いていたということは積極的に触れられないのが現状です。
ナチスドイツの芸術がその断絶ゆえにあまり語られないのと逆に、戦争画制作者に芸術的力量があるがゆえにあまり語られていない印象を受けるのです。
戦争に協力しなかった「新人画会」が英雄的に語られるのと同様に、巨匠藤田嗣治の、巨匠横山大観の「汚点」はどのようなものであったのか、それを語ることも重要なのではないかと思います。


戦争画の主な作品は一度GHQに接収された後、東京国立近代美術館に無期限貸与という形で所蔵されています。
2012年の所蔵品ギャラリーリニューアル後は一部屋もしくは二部屋を使って、戦争画が展示されることが常となっています。


しかし今年は戦後70年という節目の年でしたが、東京国立近代美術館の年間スケジュールには「戦争画」をテーマにした展示は行われないようです。
いくつかの公立美術館では「戦争と美術」をテーマにした展示は行われるようです(例えば板橋区立美術館では所蔵品をもとに「近代日本の社会と絵画 戦争の表象」展を開催していました。)ので、東京国立近代美術館にも来年以降でもいいのでこのテーマに正面から向き合った企画展の実現を期待したいところです。「大ドイツ芸術展」の再現展示と同じく「戦争を美化する」という批判や逆に歴史修正主義的な批判が起こり、多大な困難があることが予想されますが、東京国立近代美術館戦争画コレクションを組み込んだ形で大規模に実施することが必要なテーマだと思います。

今回のブログ記事を書くにあたって、以下の本があることを見つけたので一度読んでみます。

絵筆のナショナリズム―フジタと大観の“戦争”

絵筆のナショナリズム―フジタと大観の“戦争”

18回目の感想 平成26年度 文化庁メディア芸術祭@国立新美術館

久々にブログ書きます。久しぶりなので散漫な書き散らし。

文化庁メディア芸術祭が2月15日まで開催されていました。平成26年度で第18回だそうで、もうすぐ20周年です。
ということで例年通り午前中混まないうちから、国立新美術館へ行ってきました。

今年の会場構成は去年とだいぶイメージチェンジ。
去年は国立新美術館2E展示室を仕切りなしで使用し、会場が一望できるようになっていましたが、今年は仕切りを付けて展示ごとのスペースをわかりやすく。
去年のレイアウトも自由に行動できて面白かったですが、今年のようにアート部門やエンタメ部門に大きな装置が必要な物が多いと必然的にこういう会場構成になりますよね。その分仕切り壁に色々なキャプションが飾られていて、作品の情報をより知ることができるので良し悪しです。

アート部門は少しマンネリの感じも。
坂本龍一/真鍋大度の「センシング・ストリームズ―不可視、不可聴」は去年の「Sound of Honda/Ayrton Senna 1989」と見せ方が一緒だなあとか思ったり、Cod.Actは二回目の受賞ですしといったところで。
そんな中で五島一浩「これは映画ではないらしい」に感銘を受けました。
動画が「縦・横・時間」の三次元から構成されるものであることを初めて意識しましたし、その中で「横」の軸で切断・復元していくことで世界を動画化するときにどれだけの情報が落ちていっているのかというのを初めて意識しました。世界を直接見ることと動画を通してみることの違い、それは視覚においてさえ存在しているということに改めて思い至ります。
アート部門新人賞は3作品中2作品がバイオとテクノロジーを結びつける試み。「Symbiotic Machine」なんかはエンタテインメント部門でも通用しそうな面白装置で実際に動いているところを見てみたかったです。
それと毎年おもうことですがアート部門は「メディア芸術」を対象にしていますが、「メディア・アート」とは違うんですかね。その辺がいまいち不案内。

エンタメ部門に関しては既に実績十分な「Ingress」「のらもじ発見プロジェクト」が受賞していて、芥川賞的な役割の変化が出てきたかなあと思ったり。
他に「Auto-Complain」や「handiii」などスマートフォンを利用してテクノロジーを安価に・身近にという方向性が顕著なんでしょうか。
どちらにしてもメディア芸術祭が注目してきた分野がいよいよ成熟してきたのかもしれません。最新のテクノロジーをお見せしましょうという感じは年々薄れていくのかも。
九州の伝統産業とアイドルをコラボさせた「5D ARCHIVE DEPT.」では、Twitterで時々見かけるLinQさんが登場していて少しビックリ。
それとこの部門、昔はコンシューマゲームがメインだったと思いますが今はすっかり脇役に落ちている感じがします。「Ingress」だとかゲームアプリに取って代わられた感が。

アニメーション部門・マンガ部門については毎年日本の作品と海外の作品を対比しながら見る良い機会になっています。
アニメーション部門は国内作品についてわりとエンタテインメント系からも取り上げますが(今年だったら「たまこラブストーリー」「クレヨンしんちゃん」)、海外作品は徹底して芸術性の高い作品という印象。賞選考の対象を選ぶ時点で差があるのかもしれませんが、海外のエンタテインメント系アニメってどういう状況なんでしょう。ディズニー一択ということもないんだろうけど。
この部門は長編や推薦作品は基本的に六本木シネマートが中心だったようで会場ではざっくりとした紹介。

マンガ部門沙村広明春風のスネグラチカ」は買おうと思っていたのをすっかり忘れていたことを思い出した(笑)
近藤ようこ「五色の舟」も休憩スペースでさわりを読みましたが、派手さはないのに引き込まれる感じ。続きを読みたい。
原作者の津原泰水さんについても「ルピナス探偵団」のみ読んでいましたが、「11 eleven」も読んでみよう。

『サッカーと人種差別』陣野俊史 サッカーはどこまで政治的になるべきか。

2014年のJリーグのトピックとして、「人種差別」と言うキーワードはさけて通れないものとなってしましました。
浦和レッズ無観客試合横浜Fマリノスのバナナによる差別。
これらの事件は「Jリーグはヨーロッパとは違う。」という矜持を反故にし、人種差別を自分たちのものとして考えなくてはならないということを日本のサッカーに関わる人々全ての眼前に突きつけました。
ということで、この本を読んでみました。

サッカーと人種差別 (文春新書)

サッカーと人種差別 (文春新書)

表題の通り「サッカー」と「人種差別」の関わりについての本です。
作者の陣野俊史氏はフランス文学の研究者ですが欧州サッカーにも造詣が深く、欧州でのサッカーと人種差別の現状についてフランスのサッカー界での例を中心にわかりやすく構成されています。またフィクションを引用しながら被差別者とサッカーの関わりあいを例示していくのも本書の特徴の一つでしょう。社会学歴史学を援用した分析などはありませんが、選手たちの肉声やエピソードを多く取り上げておりこの問題に対して直感的にイメージを把握するための入門書の役割を果たす本であると思います。
特に3人のサッカー選手――ジョン・バーンズ/ニコラ・アネルカ/クリスティアン・カランブー――の三人の生い立ちに寄り添いながら、人種問題の根底にあるものを明らかにすると手法はNumberのドキュメンタリーを読んでいるようでもありました。

サッカーはどこまで政治的なるべきか。

本書では人種差別に対するフットボールの側からのカウンターについても取上げています。
ダニエウ・アウヴェスへの差別に対するSNSでの連帯。FARE(Football Against Racism in Europe)によるキャンペーン。多くのフットボールコミュニティの人々に支えられながら、欧州サッカー界では人種差別に反対することが明確に示されてきました。
その中でも注目すべき活動としては、リリアン・テュラムによる教育への支援があります。テュラムは人種差別にはサッカーの世界のみで対応することは不可能であり、社会の中で教育にコミットしていく事によってしか解決できないと訴えるのです。
確かにボスマン判決は欧州統合という社会変化に伴って生まれたものでもあり、また移民問題などにもとづく憎悪もその感情が生まれる場所はスタジアムの外です。であるならば、スタジアムで人種差別が渦巻く状況を変えるための活動もスタジアム外から取り組まなければいけないのではないか。スタジアムの中でのキャンペーンを越えた社会活動が必要なのではないか。

本書では人種差別の問題だけではなく、宗教差別―女子サッカーにおけるヒジャブの取り扱い―や性差別・同性愛差別といった様々な差別に対するサッカー界での現状と取組を取り上げています。そのいずれも現在のところはテュラムのような一部の例外を除いてサッカー界内部に限った動きです。しかしサッカーの力を使って様々な差別とスタジアム外においても闘うことを選ぶことができるのかというのは今後の注目すべきポイントになってくるのかもしれません。
なぜなら「差別と闘う」ということは一定の政治性を帯びることでもあるからです。
サッカーは常に政治とは一定の距離を保っています。各国のサッカー協会が政府からの介入を受けるとFIFAの制裁が加わることになります。
サッカーと政治を結びつける考え方は円滑な試合開催の障害になることは、先日のアルバニア代表vsセルビア代表で起こった大アルバニア主義者の煽動した騒乱からも明らかです。
一方でFIFA人道主義の名のもとに政治的な動きを見せることもあります。ユーゴスラビア紛争・サライェヴォ包囲の際のユーゴスラビア代表に対する制裁措置はその現れでもあります。

さて差別の闘いは人道主義的であると同時に往々にして政治的な問題でもあります。
ロシアやアフリカの一部の国では同性愛差別と闘うことは政治的な問題となります。フランスにおける移民問題とサッカー界が正面から向き合った場合、サルコジ政権との衝突もありえたでしょう。
差別はスタジアム外に原因があるからこそ、その闘いも社会的・政治的なものにならざるを得ないのだと思います。
そういう状況の中でサッカーはどこまで「人道主義」を掲げるべきなのか。反差別の普遍性を強調することもできると思います。一方であくまでもサッカーはスポーツであり政治活動では無いという見方もあるでしょう。

少なくとも日本においては反差別に関する社会的な活動を行うことが、すぐに政治的な問題につながるとは思いません。であるならば、スタジアムにおける反差別宣言だけではなくスタジアム外にも積極的に働きかけることができればいいなと思います。

反差別の論理として本書では「コスモポリタニズム」を打ち出しています。しかしサッカーに関わるすべての人達にオシム氏のようなコスモポリタニズムを求めるのも難しい気がします。「サッカーネイション」という架空共同体を考えた上でのその中での構成員の平等というのも頭に浮かびましたが、掘り下げるのは色々と大変そうだし、素人考えにすぎないのでとりあえず保留。

芸術の秋 国宝の秋

芸術の秋ということで、各美術館が力を入れた企画展が開催される季節です。
今年はなんか「国宝」が展示される企画が多いんじゃないかと思いました。訪問済み・訪問予定の美術展からちょっとまとめてみたいと思います。

「日本国宝展」@東京国立博物館

展覧会の名前の通り、国宝・重文をずらりと並べた展覧会。
正倉院宝物の展示もあります。毎年、奈良国立博物館で「正倉院展」やってますが東京ではなかなかまとめてみる機会ないですから、いい機会です。絶対混雑していると思いますが、なんとか機会を見つけて行きたいと思います。

「京へのいざない」&「国宝鳥獣人物戯画と高山寺」@京都国立博物館

京都国立博物館のダブル企画展。
「京へのいざない」展は京博平成知新館が完成した記念の展覧会。京焼や京都の寺社の所蔵品など京都に縁のある作品が集められています。「ポルトガル国インド副王信書」の絢爛豪華や「聚光院方丈障壁画」の優美さに心ゆくまで浸ることができます。
また、新聞
出品一覧を見るとどうも前期のほうが展示内容が豪華だったようですが、10月第二週までだったようで仕方なし。
鳥獣戯画」展は鳥獣戯画修復記念の展覧会です。鳥獣人物戯画は勿論のこと、高山寺の所蔵する寺宝があらかた展示されていて非常に豪華です。先週訪れたときには、『明恵上人像』『仏眼仏母像』などの国宝が展示されていました。『仏眼仏母像』の線描に惚れ惚れです。
金曜日の夜間会館中は比較的ゆっくり見れたのでオススメです。(翠玉白菜についてそんなこと書いたら、翌週からすごい混みましたが……)

東山御物の美」@三井記念美術館

室町美術に関するかつて無いほど豪華な展覧会です。
室町幕府将軍に愛されてきた唐物・唐絵を中心とした展覧会。室町時代の唐絵の名品がことごとく出品されます。1つあたりの展示期間は短いですが、何度も行けば漏れ無く見ることができるでしょう。
『紅白芙蓉図』『秋野牧牛図』などの博物館所蔵の国宝のみならず、『宮女図』『桃鳩図』などの個人所有の国宝まで抑えています。「展示室4」という一つの部屋にこれらの唐絵は収まっていて、もうこの部屋にいるだけで気持ちが高ぶってくるというものでした。

「御法に守られし醍醐寺」@渋谷区立松濤美術館

松濤にある小さな美術館での展覧会ですが、展示内容はコンパクトながら非常に豪華。
国宝は『閻魔天図』『過去現在絵因果経』『醍醐寺文書聖教』の3点。後半から『閻魔天図』は入れ替えになります。
堪能すべき点は掛け軸の仏画をかなり間近で見れることでしょうか。国立博文館や寺社ではなかなか至近距離では見れない仏画ですが、この展覧会では比較的薄いケースに入っているためへばりつくように鑑賞することができます。
また『過去現在絵因果経』は東京においては東京藝術大学版は比較的頻繁に見ることができますが、醍醐寺版は馴染みがないと思います。全巻展示もあるそうなので、ひとつづきの巻物として楽しむ絶好の機会かと思います。

「名画を切り、名器を継ぐ」@根津美術館

視点が面白いなと思った展覧会です。作成当時の原本とは異なる形で鑑賞され、伝えられている作品を集めています。
床の間と茶道の誕生によって、小品が愛されるようになったためのトリミングや不作為の美を追求するための割れと継ぎを意図的に行うなど、積極的に作品を編集する行為が行われるようになったのは、面白いやらもったいないやら。
佐竹本三十六歌仙絵巻についての逸話は聞くたびに、完品だったらいくらだったのか、国宝になっていたのかなどのIFの想像が膨らむのが面白いところです。
展示される国宝は牧谿の『漁村夕照図』など。この絵も元々は『瀟湘八景図』の一つでした。ほかの7つの場面に思い巡らすのもいいかもしれません。

他にも東京地区だけを概観しても、終了した展覧会で言えば、五島美術館の「秋の優品展」や出光美術館の「宗像大社国宝展」、これからの畠山記念館での「離洛帖」「蝶蝶螺鈿蒔絵手箱」展示やサントリー美術館での高野山展など国宝に指定された名品が東京にワンサカやってきます。
できるだけ見逃さないように頑張らないといけないようで、今年の秋は大変になりそうです。

魔法少女への道 美少女の美術史展@静岡県立美術館

美少女をあまねく集めた展覧会。

静岡県立美術館へ「美少女の美術史」展を見に行ってきました。
静岡県立美術館・青森県立美術館島根県立美術館の3つの地方公立美術館が連携しての企画展。2010年度の「ロボットと美術」以来となるトリメガ研究所の企画だそうです。

今回の「美少女の美術史」展はその名前の通り、美少女というアイコンが日本美術史のなかでどのように扱われたのか、浮世絵からコンテンポラリーアート、アニメーションまで幅広い対象から考察を行っています。
この展覧会では美少女をモチーフにしたイメージを幅広く収集していて、梶田半古のちょっとした小品や作者不明の風俗画、市井に貼りだされたポスターなど「よくそんなものを見つけてきましたね。」と言う作品も並べられています。
また、村上隆などのアニメ風美少女が描かれている現代アートが紹介されるのは勿論のこと、美少女フィギュアについて彫刻作品を語る具合にキャプションが作成されていたり、『クリィミーマミ』から『魔法少女まどか☆マギカ』までの魔法少女の流れを概観したりと、いわゆる「サブカルチャー」方面に対しても目配せをしている懐の深さがありながら、それでも古今東西の美術論を芯においたしっかりとした展覧会構成があることで内容が散開することなく理解でき、本当に面白い展覧会でした。

また、今回の展覧会にあわせて塚原義重監督が太宰治作『美少女』の新作アニメーションを制作しています。非常に幻想的な世界観をもったこの作品も「美少女」ばかりの展示を見続けた中ですっかり浮世離れしたこころで見てみると、自分が「美少女」の世界の中に取り込まれるような、しかし「美少女」に対して分析的な立場にも立っているようなそんなアンビバレントな雰囲気を覚えました。作品を収録したDVDがミュージアムショップに売っていたのでとりあえず購入しました。

「美少女」について考える。

本展覧会では特定された人物の肖像ではなく「匿名の少女」や「非実在の少女」の肖像が多く展示されています。こうした作品を見ていくと存在自体が抽象的な人物を表現することにはどんな意味があるのか、という疑問が頭に浮かびます。そこで美少女をモチーフとした様々な作品を見ながら、「美少女」を描くということはどういうことなのかを少し考えてみました。

まず前提として存在すると思われることは、「美少女というのは描かれるだけで作品となる」ということです。この展覧会で展示されている美少女の肖像画の多くは本当に素朴な日常のポーズを切り取ったものが多く存在します。中には座っているだけのものや、ウツロに転がっているものもあります。それでも作品として成立してしまう力を「美少女」は持っています。これは文学作品でもアニメーションでも同じだと思います。今回製作された太宰治作『美少女』のアニメーションは内容としては少女の独白です。それだけの内容にもかかわらず、様々な装飾が加わり鑑賞に耐えうる一つの作品になるのです。
これは「美少女」が先天的に持つ、言葉通りの「美」によって生まれる現象だと思われます。

そして、こうした絶対的な美である表徴に対して、人々が様々な意味合いを付与してきたことが本展覧会では如実に現れてきます。

例えば「少女たちの理想としての少女像」です。
明治以降に誕生した女学生という層の間で生まれた少女文化の中から立ち上がってきたイメージです。彼女たちは少女雑誌を手本としてファッションや立ち居振る舞いについての規範を身につけていきます。中でも重要な役割を果たしたのが挿絵でした。竹久夢二高畠華宵中原淳一といったイラストレーターが描いてみせた、華々しいファッションに身を包んだ女性像は女性の目指すべき理想を指し示すものでした。女学生たちが憧れる先輩たちの過ごす世界を具体化してみせたのが、これらの挿絵であったのだと思います。
一方で少女雑誌の時代による変遷をたどる(昭和館での中原淳一展などを思い出します。)とこれらの少女像は少女たちのセルフイメージの反映であると同時に、周囲の大人たちの理想のイメージが混ぜ込まれていることも注目されるべきなのかもしれません。
「理想としての美少女」というイメージは次第に社会的なものにまで拡大していきます。農村ではたらく女性たちは古き好き日本の風習を担う人々の、活動的でファッショナブルな女性像は文明化し消費社会を謳歌する人々の理想として描かれます。
それらは社会における女性に対する認識を表徴するものであると同時に、「美しき女性が楽しむ」という画面をとおして表徴されるもののイメージを上げるという作用も果たしているのだと思います。その極限に存在するのが、商品広告の世界でありましょう。

例えば「依代としての少女像」です。
美少女が持っている「美しい」「無垢」という好ましいイメージは、他のイメージと結びつけることができます。吉岡正人や藤野一友の作品のような神秘的な作品、松本かつぢ高橋しんのイラストなどは「祈り」や「聖」といったイメージと結びつきを意識して、清浄さを引き出しているように思われます。唐仁原希の不安やobの儚さのイメージから、Mrの過剰な幸福感まで美少女像は様々なイメージと結びついています。
一方で丸尾末広の描く挑戦的な美少女や中村宏の描く醜い美少女たちは、私たちが美少女に抱いている好ましさを揺さぶることで、強い印象を与えます。普段私たちは美少女を純真無垢な存在として捉えていますが、その認識に反したイメージを与えることによって、鑑賞している私たちをどきりとさせるのです。

例えば「欲望されるものとしての少女像」です。
美少女たちを鑑賞することを通して私たちは、彼女たちに対して一方的に想像を巡らせることが出来る立場となることができます。この特権的な立場を利用して私たちは彼女たちに様々に欲望をいだくことができるのです。美少女フィギュアに施されたマニエリスム的な造形は、体のラインを強調し美少女たちの肉体の魅力を過剰に引き出させます。どこか蠱惑的なイメージを持つ作品、魔性をほのめかす作品は、私たちがそのような欲望を持つことを許容するかのような想像を引き出すのです。
こうした少女像が最もよく作成されるのは「エロ」の世界でしょう。今回の展覧会では、公立美術館での開催ということでなかなかそういう展示は難しかったと思われますが、美少女と美術の関係を考える上ではより深く考えるべき視点なのではないかなと思います。
魔法少女」はこうしたイメージの集大成として考えることができるかもしれません。
彼女たちは少女の持つ「聖性」が転化した「守護者」のイメージから引き出された、マジカルな問題解決者です。彼女たちは一方で少女たちの理想を背負い、一方で男性たちの欲望を背負います。
超能力を持つ戦闘美少女たちは、美少女の日本美術史が築いてきたものの一つの完成形と言えるのかもしれません。