日本と西洋の美術循環 -ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展-印象派を魅了した日本の美-

世田谷美術館で開催されている「ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展-印象派を魅了した日本の美」展。NHKの後援でかなり宣伝をされています。クロード・モネの「ラ・ジャポネーズ」をアイコンとしたポスターが東京のあちこちに張られています。こういう展覧会は終盤になると混みそうなので、早めに行っておくに限ります。

ということで、世田谷美術館に行ってきました。そうは言っても世田谷美術館のここ最近の展覧会に比べると既に人が多いなという印象です。終盤になるとなかなかの混雑になりそうな雰囲気が出ています。

今回はこの美術展をとおしてジャポニスムについて考えてみました。

ジャポニスムを総体的に分析する展覧会

この展覧会のテーマは題名通り「ジャポニスム」です。ボストン美術館の収蔵品から、フェノロサ岡倉天心らの収集を基礎とした日本美術と19世紀末から20世紀初頭の西洋美術を比較することで日本美術が西洋に与えた影響を探っていきます。

今回の展覧会では様々な視点からジャポニスムを探る試みをしています。例えば、展覧会の構成をとってみても

  1. 日本趣味(ジャポネズリー)
  2. 女性
  3. シティ・ライフ
  4. 自然
  5. 風景

と幅広い表象についてジャポニスムの影響を探ろうとしていることがわかります。

また、対象となっているメディアも浮世絵とフランス近代絵画の関係、日本近代工芸とヨーロッパの工芸のみならず、写真やアメリカの芸術といったこれまでジャポニスムの観点から論じられることが少なかった分野にまで視野を広げています。展示方法についても日本側の作品と西洋側の作品を近接して並べることによって、ジャポニスムと見ることができる技法的な近似について把握することができるような構成となっています。

さらに19世紀当時の日本美術の欧米への移入ルートや受容状況などについても丁寧に解説が行われていました。こうした展覧会の構成によって、印象派を始めとした19世紀の西洋美術に影響を与えたという逸話だけがひとり歩きしがちな「ジャポニスム」という用語についての実体を明らかにしようとする試みはある程度成功しているのではないかと思います。

「ラ・ジャポネーズ」の修復後世界初公開が大きくクローズアップされていますが、-実際に目にすると圧巻な作品です。特にモネ夫人がまとっている打ち掛けの鮮やかな煌きは一見の価値ありだと思います。- 展覧会の軸となっているジャポニスムに対して考えを深めるきっかけにもなり、非常に満足度の高い展覧会でした。

ジャポニスム」と日本と西洋の美術循環

今回の展覧会においてジャポニスムの一側面として「都市的な題材を扱っている」という点に注目しています。
ジャポニスムの源流の一つである江戸後期の日本美術は江戸を中心とした化政文化の中で生まれました。近世最大の都市に発展した江戸における美術市場は百花繚乱の様相で多くの町絵師や浮世絵師が切磋琢磨していました。こうした状況で19世紀の江戸絵画では、より強烈なインパクトを与えるような題材や構図を追い求めダイナミックな絵画がたくさん生まれました。大胆なクローズアップを行った風景画やバストアップの女性像、都市の新奇な風俗や娯楽を題材にした視覚芸術が一世を風靡します。*1

こうした近世最大の都市で生まれた芸術は、産業革命を経た西洋の諸都市で受容されたのだと考えられます。
都市化は多様な絵画文化の誕生を促し、それまでの神話や歴史画を中心としたハイコンテクストな絵画から印象派や唯美主義といった鑑賞者の感覚へ直接訴えてる絵画への変動をもたらしたのではないでしょうか。こうした状況において、先行して都市における芸術を発展させてきた日本の芸術で用いられた題材・構図・技術などを参照することによって西洋絵画の新しい潮流を生み出すことができたのだと思います。
だからこそ大衆に訴求する浮世絵という木版画からポスター美術や版画に対してジャポニスムの大きな影響があったのではないでしょうか。

一方で本展覧会でジャポニスム技法として例示されているクローズアップや俯瞰での風景がについて、オランダから輸入された顕微鏡や望遠鏡といった光学機器や博物学の書物からの影響が見られます。こうした科学的視点は日本に伝来し、文化として咀嚼される中で美術野中へも援用されるようになりました。*2
つまり19世紀にフランス絵画で導入されたとされるジャポニスム技法には西洋に源流を持つものがあり、それを日本が芸術として取り込むことによってヨーロッパに「逆輸入」されたものがあるということです。(もちろん、「ジャポニスムの影響」とされているものが実は西洋からの連綿とした系譜に位置づけられる可能性もありますが。)

ジャポニスム以後の流れについても美術の東西循環が存在しました。
本展ではアールヌーヴォーの工芸品やデザインに見られる自然を取り入れた意匠について、日本の工芸品の影響が見られるとしています。技巧を凝らして自然の意匠を盛り込んだ日本の工芸は万国博覧会を中心に西洋を席巻しました。「ジャパニーズグロテスク」と呼ばれた程に凝ったデザインはヨーロッパにおいて洗練されアールヌーヴォーが生み出されていきます。
一方で過度に技巧的で派手な日本の工芸は時代遅れとなり、その輸出量も減少していくことになります。このような状況で日本の陶芸家板谷波山アール・ヌーヴォーの洗練された意匠を研究し、東洋の古典意匠との融合を果たすことで日本の陶芸界に新風を吹き込みました。*3
これは「ジャポニスムが西洋工芸に与えた影響」が巡って、日本の工芸への影響を与えたといえるのではないでしょうか。
またジャポニスムの影響を受けて誕生した近代西洋絵画が、明治維新以後日本に導入された油絵に与えた影響の大きさは計り知れないものがあります。

このように19世紀末に西洋を席巻した「ジャポニスム」が、一方的に日本美術が西洋美術に影響を与えたと見るのは正しくないでしょう。さらに言えば今まで「ジャポニスム」とされていたものは、実は西洋の視覚表現の中に潜在的に存在していたものが日本文化との接触によって顕在化したものと考えることもできるかもしれません。
「あれも日本の影響、これも日本の影響」とともすれば陳腐な自民族文化の礼賛になりかねない「ジャポニスム」について、美術界における歴史的な東西交流を整理することで、より大きな国際的な美術世界を明らかにする方向に向かえば良いと思います。

*1:「江戸絵画の19世紀」@府中市美術館

*2:『大江戸視覚革命』タイモン・スクリーチ

*3:「没後50年回顧展 板谷波山」@泉屋博古館分館

宮内悠介 『盤上の夜』 人と神との境界線。

宮内悠介 『盤上の夜』を読了しました。2012年の日本SF大賞受賞作です。

盤上の夜 (創元SF文庫)

盤上の夜 (創元SF文庫)

以下に感想を書きます。ネタバレは無いと思いますが、念のため。

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『アメリカの反知性主義』と日本の反知性主義

朝日新聞の書評で話題になったホーフスタッター『アメリカの反知性主義』をようやく読みました。

アメリカの反知性主義

アメリカの反知性主義

『昨今の日本の政治や言論において「反知性主義」がはびこっている、なんて嘆かわしい』という警鐘の記事の中で、関西大学竹内洋氏が言及したことで注目を浴びた本書。

確かに左右問わず、反知性主義的な言説が飛び交っています。政治における決断主義やアマチュアリズムの興隆。反原発運動や歴史修正主義を巡るアカデミズムの軽視。そしてウェブ上に形成される、知識人から大衆までを横並びとした特異な言論空間。2010年代に入って日本における反知性主義はその栄華を極めているように思われます。
今日本に吹き荒れている反知性主義の正体は何なのか見極めるため、本書をとおしてアメリカの反知性主義を巡る歴史を振り返ってみます。

アメリカの反知性主義

本書はアメリカの歴史家ホーフスタッターがアメリカ独立前後から1957年のスプートニク・ショックまでの期間について、アメリカで観察することができる「反知性主義的言説」とその歴史的背景を明らかにしています。
ホーフスタッターは反知性主義を一貫して、「アメリカの知識人に対する反感。そして知識人が信奉する考え方への反発」として描いています。そのため反知性主義は強い思想的背景を持っているわけではなく、知識人を構成する社会層と相対する集団が個別に発しているネガティブメッセージの集合体として描かれています。

本書では「反知識人キャンペーン」の主体として、下記のような人々の言説が分析されました。

  • 福音主義
  • ジャクソン流民主主義者
  • 起業家
  • 教育改革者

宗教保守からリベラルな教育改革者まで幅広い人々が反知識人キャンペーンを担っていたことを明らかにします。
彼らの知識人への言説は、まるで『オリエンタリズム』を読んでいるかのような偏見に彩られた誹謗中傷が目立っています。

曰く、決断力・行動力に乏しく男らしさに欠けている。
曰く、冷酷で反道徳的で時代遅れの考えに固執している。

このオリエンタリズム的言説とアメリカの反知性主義的言説の共通を見ていると、アメリカにおいて知識人が社会における他者として存在していることが明らかになります。

福音主義者・政治家・実業家・教育者、これらの人々はみな「大衆」に向かって呼びかけます。「知識人は〇〇である。彼らはアメリカでは役に立たない。」と。この言説は初め、ニューイングランドの上流階級を批判するためのものでした。建国の父達の時代から19世紀にかけて、大学は上流階級以外には縁遠い場所であり知識人を構成するのは彼らだったからです。古くからの大学が集まるマサチューセッツは知識人たちの本拠地でした。
一方でアメリカの民主主義の中で力を持っていたのは、かつてフロンティアで開拓を行っていた人々でした。「マニフェスト・デスティニー」に導かれた西漸運動はアメリカ国内における文化の集積を難しくし、また社会基盤のないフロンティアにおいては行動主義こそが正義でした。自分の力で生活ができ、民主主義政治の一員を構成できるのに十分な知恵を持っていれば十分というのがフロンティアに求められる人間像です。

このフロンティア・スピリットは長い間アメリカの魂を支える思想となり、この経験をもたない東海岸の上流階級から構成される知識人はアメリカ社会において他者となったのです。
もちろん知識人の側でも、俗世間から疎外されることによって精神の高邁さを保とうとする内的傾向によってアメリカ社会から遊離した存在になろうと、積極的に社会参加からの離脱を図っていた面もありました。

そんな社会から招かれざる他者として受け止められていた知識人が、社会的地位を向上させていた時期があります。それは概ねアメリカの危機の時代でした。金ぴか時代が終了後に到来した革新主義の時代、ニューディールです。
この時代には彼らの知識が必要とされ、ブレーントラストとして政策立案過程に関わることになります。
そして(本書ではあまり語られていませんが)第二次世界大戦です。この総力戦の時代において、アインシュタイン原子爆弾を提唱し、ルース・ベネディクトは日本人の文化人類学的研究を行います。科学者・人文学者を問わず戦争勝利のために駆り出されました。知識人たちはアメリカの存立に貢献することによって、「理解外の他者」から「アメリカ国民」になることができたのです。ここまでは本書における歴史記述から、私が理解した「アメリカの反知性主義」の概況です。

しかしここで問題となるのは、マッカーシズムです。
本書はマッカーシズムを初めとする知識人に対する攻撃が、スプートニク・ショックによって転換したことを契機に書かれています
しかし、残念ながら本書ではなぜ一度は蜜月となった知識人とアメリカ大衆の関係にヒビが入ったのか、十分に明らかにしているとは言えないと思います。気がついたらアイゼンハワーが大統領となり、マッカーシーは上院議会で猛威をふるい、知識人たちは迫害に怯える日々を過ごす。
この「気がついたら」の部分にこそ、「現代社会における反知性主義」の萌芽が見えてくるはずです。近代アメリカからのフロンティアスピリットの残滓というのも勿論あると思いますが、ニューディールから戦争の間に芽生えた和解を打ち崩すには全く別の潮流が会ったのではないかと考えられるのだと思います。

そこで本書の全体の流れから改めて考えてみると、「個人の価値」を礼賛する余裕が生まれることによって反知性主義が勃興するのではないかという考えが浮かび上がります。
知性主義が社会に適応されることは、しばしば「知性の劣った人間による判断は無価値となる。」というように理解されます。構成員の大多数の意思を制限するこの考え方は、個人の意思を尊重する素朴な民主主義社会・素朴な資本主義社会においてあまりありがたくはない考え方です。
そこで「民主主義・資本主義社会のなかで生活するには十分に知性的な人間」という評価尺度が生まれたのだと考えられます。政治や教育・経済といったことに対して論争が存在する時、その論争への参加するために必要な知性というものが存在するのだと思います。反知性主義とはこのボーダーを引き下げる運動であり、この運動の中では知識人層は抵抗勢力として理解されるのです。

アメリカ社会の安定によってこの評価尺度は大きく変化してきました。
不況や戦争による国家の存亡と向き合うような場合や、複雑化した産業構造の中で企業経営を行う場合など環境がコントロールできなくなると、「十分に知性的な人間」の尺度は高くなり知識人の活躍の場が増えていきます。
一方で好景気や戦勝によってアメリカ社会の安定の度合いが高くなると「十分に知性的な人間」の要求レベルは低下し、素朴な民主主義の復活が可能になるのではないでしょうか。

この考え方を元にするとホーフスタッターが提唱した「知性」と「知能」の違いについても理解できます。
この違いは「十分に知性的」という評価尺度の内容構成についての、知識人と経営者との間での相違によって生まれたのではないでしょうか。知識人たちは欧州文化から引き継いだ教養を重視し、そこから得られる思考様式を評価尺度とします。
一方で経営者たちは簿記やコミュニケーション術などを規準に評価をしたがります。「ビジネス上の知性」と呼ぶことができるかもしれません。それは元来の知性とは大きく異なりますが、資本主義における教養ということになるのかもしれません。

日本の反知性主義

翻って日本の状況を考えてみましょう。
戦勝後のアメリカとは全く異なる現在の日本社会において、余裕があるがゆえに「十分に知性的な人間」の要求レベルが引き下げられることがあるのでしょうか。むしろ新興国の国際社会での地位向上や長引く不況の疲弊によって「知性・知能」の高い人間の活躍を望む動きは強くなっているように思われます。しかし、一方で学者や知識人層、そして日本の重要なシンクタンクである官僚機構での議論を軽視し、これらの集団を介さない議論の形成を求める意見が強くなっています。

そこで日本の「反知性主義」勃興の原因として考えられるのは「十分に知性的」という評価尺度の崩壊です。いわばアノミー的な反知性主義です。
日本における1990年代から2000年代にかけての歴史的状況は、既存の知識人層の持つ政治に対する影響力を決定的に落とす事になりました。マルクス・レーニン主義の敗退は、日本のアカデミズムにおける左派勢力の信頼を失墜させました。一方で官僚に対する性接待の発覚は政策形成集団としての官僚のイメージを貶め、彼らの知的レベルに疑いをもたせるものとなりました。

こうした事件によって知的評価軸の安定が揺らいでいる中で、「それならば一般大衆自らが主導権をもって、政策を決定しよう。」という流れを創りだしたのが、小泉劇場と「マニフェスト中心型選挙」という思想でした。この政治思想によって私たちは知性的な議論を戦わせることを省略して、選挙という道具を持って政策を決定するという考えを持つようになりました。
この時、政策決定の議論に参加できる「十分に知性的」という規準は、選挙権を持っていること同義になるところまで引き下げられました。この時の選挙以降で度々問題になる「B層」や「論点集中型選挙」はこのような知性主義の崩壊から生まれたのではないでしょうか。

一方で経済界においてもグローバリズムの襲来は、日本型経営の積み重ねを全く無意味にするような新しい状況を生み出しました。そこで経済界でも彼らが必要とする知性(ホーフスタッター的な区別をつけるのであれば、知能)の再定義を行う必要が出てきました。ここで彼らの求める知能が欧州の文化によって規定された「知性」とはかけ離れていること、これが経済界の「反知性主義」の正体ではないでしょうか。

また日本において「反知性主義」が蔓延している一方で、根強く科学崇拝が残っていることも「理系学問の方が日本の歴史的状況において知性主義の崩壊の影響が少なかった。」という理由によって説明がつくのではないでしょうか。しかしこの知性主義の楽園も政治の側からの圧力をとおして、反知性主義に浸潤されようとしています。これが端的に現れたのが「STAP細胞」問題の政治的な部分や一般の受け止め方なのではないでしょうか。

日本の反知性主義を退治するために

ということで、ここまで日本の反知性主義の現状を考察してみました。
そこで日本の反知性主義を弱体化させるにはどうすればいいのかということを考えてみると、「知性の評価尺度」の再構築が必須となります。これは、「知識人層がどのような態度とどのようなレトリックを用いて、論争を行うか。」「知識人が論争を行う上でどのような立場を取りうるのか。」ということに尽きると思います。
現代の言論空間においてはWWWを通して自由な課題設定と自由な論証で大衆が議論を行っています。この空間の中において知識人としてどのような振る舞いをするのが正解なのか、ということを考える必要があるのだと思います。(勿論WWWでの議論には参加するものではない、ということもあるでしょう。)

そして同時に、「十分に知性的」であるという評価尺度の引き上げについて、納得できる理由を提示する必要があると思います。
反知性主義を議論から追い出すためには、一定程度知性的でであることが議論参加における関門となるように調整しなければいけません。ここの議論については反知性主義の側が現在は相当優位に立っているように思われます。
それは、戦前のアメリカにおける反知性主義を弱めることになった「国家の危機」というカードは現在、反知性主義の側に握られています。ただでさえ知性主義に基づく意見形成過程は、素朴な民主主義・資本主義と相反するものとなるうえに、これを乗り越えるための非常大権も反知性主義が先に使用しているのです。知性主義の正当性を認めさせることはなかなかに難しい作業です。

いずれにしても現代日本において「知性主義の復活」を目指すということはなかなかに難しいことです。
勿論相手の土俵に乗って勝つ、つまり選挙で勝つという方策もあるのでしょうがあまり効果が高いとはいえなさそうです。
それよりも私は「知性の力によって、知性主義は復活できるのだと信念を持つこと」という地道な作業以外に無いのだろうと考えます。それがどんなに長い茨の道であったとしても。

台北国立故宮博物院展 翠玉白菜”だけ”見てきた

上野・東京国立博物館で開催されている「台北 國立故宮博物院-神品至宝-」展。

目玉は6月24日から7月7日まで展示されている「翠玉白菜」。展示会場も平成館ではなくて本館特別5室という格別の扱い。
特別5室は《モナ・リザ》や《民衆を導く自由の女神》など注目度の高い作品を1点のみ展示するということがなされる部屋です。実際に開催初日から平日にもかかわらず入場制限がかかり、入場まで2時間待ちなんていう状況になっていたようです。


台北の国立故宮博物院の名品中の名品が2週間限定の公開ということで、休日は更に人がたくさん並びそうです。
最近の特別5室公開で並んだ記憶というと、「キトラ古墳壁画」の修復終了に伴う公開。この時は休日の開館すぐに到着したにもかかわらず既に50分待ちという状況でした。

ということで開催初日の平日夜という一番空いていそうな時間を狙って、見に行くことにしました。
平成館での展覧会本体を見るのはまた後日というワリキリのもと、18時半ごろに入場。
思惑通り館外の待機列は解消されていて、特別5室の中での待機列も10分程度でした。

今回のお目当ての翠玉白菜は、特別5室の中にさらに円形の部屋が作られていてその中で拝観する形。その部屋までの前フリは映像での紹介のみということで、キトラ古墳展とは少し違う感じですね。そして円形の部屋内での人のさばき方は東京国立博物館によくある「一列目は流れて見る。二列目以降でじっくり見る」という方法でした。一列目から作品までの距離も少しあるので、アートスコープがあれば、見やすいかもしれません。

翠玉白菜を一目見た印象は「思ったよりも小さい」ということでした。
白菜自体は高さ20cmくらいで、少し扁平な形。ただ、よくよく目を凝らしていくとその優美さが伝わってきます。

翡翠とは思えないほどやわらかな葉の形。細やかな葉脈の彫り。白から深い翠へのグラデーションも鮮やかです。
細部まで表現されているキリギリスと、触れば折れてしまいそうな細い足。
そして玉の肌質によって光沢を帯びる様子は、瑞々しい艶となって目に飛び込んできます。
見れば見るほど世界一級の工芸品とはこういうことかと、感慨が沸き上がってきます。

三井記念美術館の「明治工芸展」では木彫による果菜が展示されていましたが、真正性は別として美的にはそれを軽く上回っていました。材質も木よりも彫りづらいであろう翡翠ですし。
日本を代表する工芸彫刻としては、高村光雲の《老猿》が思い出されますが、それを見た時に匹敵する技への畏敬の念を覚えました。
ということで、一列目で見るための列に並ぶこと三回。二列目で眺めていた時間も含めると30分強を一つの作品を眺めて過ごしました。それだけの時間見ていても飽きず、視点を変えるごとに新しい発見をすることが出来ました。

平日夜だからこそこれだけ自由に堪能できたと考えれば、本展を捨てて見てよかったかなと思います。
きっと休日では混雑で堪能できないでしょうし、平成館と合わせてみると疲労困憊になりそうですし。

「翠玉白菜」の展示は7月7日まで。平日夜、アートスコープを持って是非見に行ってみてください。

ゴービトゥイーンズ展とこども展

六本木ヒルズでは子どもに関する2つの展覧会が開催中です。
今回はその感想を。

こども展

森アーツセンターギャラリーで開催されている「こども展」についてです。
19世紀から20世紀にかけての子どもの肖像画を集めた展覧会です。2009年にフランスのオランジュリー美術館で開催された展覧会の日本版ということだそうで、フランスと日本にある絵画で構成されています。
本展覧会では子どもの肖像画を巡る美術史的な検討とともに、モデルとなった子どもに焦点があたっています。

確かに本展では、モデルになった子どもとそれを描いた画家―親であったり、親の友人であったり―のエピソードをふんだんに盛り込んで、子どもと周囲の大人との幸せな関係の中で肖像画が描かれたことが伝わってきます。

クロード=マリー・デュビュッフの家族肖像画。
ベルト・モリゾの娘・ジュリー・マネをモデルとした印象派絵画。
モーリス・ドニの自分の家族を描いた絵。

第一次世界大戦前までの絵画には家族の中で子どもが幸せに暮らしている様子が描かれます。
モデルとなった子どもがいかに絵のモデルになることが退屈に思っていたなどという話も出てきますが、それさえも第三者的に見れば「ほのぼのエピソード」として受け止められるでしょう。
暗い雰囲気をまとっているのはウジェーヌ・カリエール《病気の子ども》ぐらいでしょうか。

それが戦間期以降の絵画になると、子どもだけをクローズアップする作品が並んでいます。
これはこの時代に入って、画家が子どもと家族という枠を越えて向き合うようになったことがきっかけなのかもしれません。それぞれの子どもが笑顔とも肖像画向けの真面目な掌状とも異なった多様な描かれ方をしているのを見ると「家族としての子ども」から「一人の人間としての子ども」という視点の変化が感じられます。

この展覧会であまり触れられていない部分としては、「家族としての子ども」以外の子どもを描いた作品です。
ド・モンヴェル《ヌムールの寄宿舎》やジョフロワ《教室にて、子どもたちの学習》はその数少ない例ですが、社会の中での子どもの存在はどのように絵画に描かれていたのかという視点は、別途検討される必要があると思われます。

それにしても展覧会冒頭のキャプションで「フランス革命期まで子どもたちは人間として認められていなかった。このため、肖像画などの題材にはされなかった。」というような記述がありましたが、これはどこを参照した記述なのかというのは少し気になります。
少なくとも王族や貴族の子女たちの肖像画はそれなりにあるわけですし、「庶民の子どもは」というエクスキューズをつけるのであれば、「そもそも、庶民が肖像画の対象になったのは……」ということになると思います。「人間として認められていなかった。」というのも事実なのか検討の余地が多いにあるでしょう。

もちろん近代家族が完成して以降、家族としての子どもの肖像画が増えているのは事実ですので、それに対する歴史的考察として付けた記述なんだと思いますが……


この展覧会は6月29日で終了ですが、その後大阪市立美術館へ巡回するそうです。

ゴービトゥイーンズ展 ―こどもを通して見る世界―

森美術館で開催されている「ゴービトゥイーンズ展」についてです。
アメリカのフォトジャーナリスト、ジェイコブ・リースが移民の子どもたちを「ゴービトゥイーンズ(媒介者)」と読んだように、さまざまな性質を超越する子どもたちに注目したというこの展覧会。20世紀初頭の作家から現代に生きる作家まで子どもをテーマにした選りすぐりの作品を展示しています。

今回の展覧会は「子ども」という媒介者を通して、社会の実像を見ようというテーマのもとに作られています。そして、展示されている作品では「子ども」がもつ様々な側面が強調されています。

例えば社会に縛られない自由さ。
例えば世界が小さいがゆえの繊細さ。
例えば大人への成長に向けての不安定さ。
例えば論理にとらわれない空想力。

これらは現代において「子ども」が持つと考えられている特徴です。
そして作家たちはこれらの特徴を踏まえて、社会を担っている大人たちには見えていない視点からの世界を気づかせてくれる、というのが今回の展覧会の構図になります。
スヘール・ナッファール&ジャクリーン・リーム・サッローム《さあ、月へ》、ウォン・ホイチョン《ああスルクレわが町スルクレ》などの作品では厳しい社会状況に対して、子どもの持つ「自由さ」を灯火として行動をしようというメッセージを発することが出来る作品ではないかと思います。また金仁淑の一連の作品では在日朝鮮人として生まれた子どもが、家族と一緒に写真をとっている。子どもたちの朝鮮学校での様子を写真としている。ただそれだけの作品のようにも思えますが、その背景に見える民族文化の中で子どもたちの個性のあり方を明らかにしてくれる、とても明るい写真です。

更にこの展覧会に展示されている作品たちは、私たちが成長するにしたがって、様々な能力を得ることと引き換えに見えなくなってしまった世界があることを思い出させてくれます。
小西淳也《子供の時間》では、子どもにみられる「視野狭窄であるがゆえに深遠な時空」が捉えられています。
これは大人との関係の外にも子どもが存在できることを表すと同時に、独りで遊ぶことが多かった私にとってはこの作品を見ると心の奥底に眠っていた記憶を呼び覚ます作品でした。
また梅佳代氏の《女子中学生》や近藤聡乃氏の《きやきや》など女性作家の作品で示される第二次性徴における肉体と精神の不均衡は、美術の外では秘すべきこととして忘れ去られていた思春期の感覚を改めて私たちに提示しています。

その一方で「子ども」を題材としたメッセージを見ている時、「子供らしさ」という概念を利用しているのではないかという疑念もいだきました。塩田千春の映像作品では子どもたちが生まれる前の記憶、生まれた直後の記憶というものを語っています。しかしこの「インタビュー」は明らかに大人の問いかけに合わせて子どもの側で作話しているように見受けられます。
おそらくこの作品の本来の見方ではないのでしょうが、その映像を見た時に大人によって書かれたキャプション「生まれる前後の記憶を語る子どもたち」と実際に起こっていることのギャップを意識せざるをえませんでした。
すると照屋勇賢《未来達》などいくつかの政治性のある作品などについて、かなり感情移入を避けながら作品を見ることになります。
芸術家が子どもたちを「ゴービトゥイーンズ」として利用して、社会に自らの考えを訴えているのかもしれないのです。

結局、私たちと「子ども」の関係は(再びの言及になりますが)小西淳也《子供の時間》に表されたような断絶が存在しているのかもしれません。そこに私たち大人が二度と入り込めない断絶が存在する限り、子どもたちの意思を忖度しているのではないかということを気にかける必要があるのだろうということも同時に考えるに至るわけです。

美術と日本の近代史 -官展とリアリズム美術の展覧会から-

今回は美術から近代史を考えることができる2つの展覧会についてです。

「東京・ソウル・台北長春-官展にみる-それぞれの近代美術」@府中市美術館と「われわれは〈リアル〉である 1920s -1950s プロレタリア美術運動からルポルタージュ絵画運動まで:記録された民衆と労働」@武蔵野市立吉祥寺美術館の2つの展覧会から近代において美術が果たした役割を考えてみたいと思います。

東京・ソウル・台北長春-官展にみる-それぞれの近代美術

まずは府中市美術館で開催された「東京・ソウル・台北長春-官展にみる-それぞれの近代美術」からです。
この展覧会では表題の通り、日本・朝鮮・台湾・満洲という旧植民地で行われていた”官展”―文展・帝展・新文展―に出品された作品を通して、植民地支配と美術の関係を探ろうという企画です。
福岡アジア美術館兵庫県立美術館、そして府中市美術館の3つの地方美術館が連携した企画ですが、特筆すべきは韓国や台湾の美術館からも作品を借り受けていることです。近代の韓国や台湾で作成された美術をこれだけまとめて鑑賞する機会は今までなかったのでとてもおもしろく回ることが出来ました。

官展は日本においては美術界のごく限られた部分に過ぎないですが、国家と植民地の関係の表徴が美術の側面から考えるには良い題材だと言えるでしょう。官展は日本の統治下においてほぼ共通のフォーマットで開催されていますし、審査という過程を経ることによって絶えず、政治の目にさらされることになります。美術の中に植民地制を内在させる制度を持っている展覧会でした。

今回の展覧会は東京・ソウル・台北長春という官展が開催された4都市ごとに章立てです。

最初の東京は官展審査員や官展出品作品からアジアを感じさせる作品を選んでいます。このセクションで感じるのは日本のアジアに対する2種類の混在した視線です。
1つはかつての文化先進の地としての視線です。コレは江戸時代の文人画の影響が色濃い日本画の作品から特に感じられました。アジアでも日本でも繰り返し引用された山水や近代化されていない都市の風景。それはフランスがイタリアを描いたカプリッチョを彷彿とさせる視線です。かつて我々の文化揺籃の地を現代の目から顧みているように思われます。
そしてもう1つは典型的なオリエンタリズム的な視線です。裸婦像や民族衣装を着た女性の肖像画は、「日本=見る/アジア=見られる」という関係を意識させます。彼女たちを見る我々という特権的な地位を存分に見せています。これは18世紀後半のヨーロッパがオリエントに対して持っていた視線をアジアに引き写してきたものと考えられます。
日本におけるアジアを題材とした絵画は、近代化による国力の逆転に伴うそんな複雑な視線を持っているように感じられます。

そして東京以外の官展に出品された作品のセクションでは、韓国や台湾の美術館から当時のそれぞれの地域で開催された官展に入選した作品が運ばれてきました。西洋絵画の技法を主に日本から学び(多くの東京美術学校卒業生の作品が展示されていました。東京美術学校が留学生を通して植民地にどのような影響を与えたのかを、明らかにする展覧会が開催されるといいですね。)取得した確かな技術を反映した作品ばかりです。
しかし官展に選ばれた作品は日本人の審査を経ているために、主題は非常に限定されていたようです。そのほとんどが「女性像」「風景画」「風俗画」などが主です。例えば和田三造が描いた重厚な歴史画のような民族の力強さを感じさせる作品は存在しません。展覧会のキャプションによれば、「日本人が考えている朝鮮/台湾らしさ」が審査に対する影響を与えているとのことですが、その中には力強さや自立という主題よりも日本人から見た安全な美しさということが主題にあるのでしょう。
その中でも女性像のファッションなどには近代にたいする地域の適応などが見れたりもします。しかし、それは限定的な事象のようでした。

また、それぞれの植民地にたいして洋画を伝えた日本人の存在を少し取り上げていましたが、今後この面に関しても深く知りたいと思います。

われわれは〈リアル〉である 1920s -1950s

1920年代から1950年代までのリアリズム絵画をテーマとしているとのことですが、実際には「プロパガンダを含んだリアリズム絵画と漫画」を特集した展覧会です。
まずはロシア・ソ連の影響を受けたプロレタリアアートから展示が始まります。ロシア構成主義の影響を色濃く感じるポスターや新聞から工場労働者や農民の苦境をリアリスティックに描き出す絵画、労働者大衆に団結の力を伝えるための漫画といったものが展示されています。神奈川県立近代美術館で展覧会を行っていた柳瀬正夢の作品も展示されていました。
1940年代にはリアリズム絵画は戦争画や増産・勤労を訴えるための絵画へ、終戦後には労働運動や反安保を支えるルポルタージュ絵画へと展開していきます。

今回の展覧会ではリアリズム絵画・漫画という手段が、大衆に訴えかける手段として様々な思想から利用されていることが示されています。それが別々のイデオロギーが表現手法のみを剽窃して様々に展開をしていったのか、それとも大衆に寄り添う絵画を目指す人々が戦前・戦中・戦後とイデオロギーを入れ替えていたのか、それはわかりません。
1940年代の戦争画・増産画の隆盛には日本労農党系列などの転向等と同様にプロレタリアート界隈でも国家社会主義への転向が起きていたようにも思われます。これは1920年代にリアリズム絵画を手がけていた須山計一や清水登之といった人々が1940年代に同種の作品を手がけていることから推測されます。
一方で終戦後のリアリズム絵画には登場する作家がガラリと変わっていますし、戦争画との断絶が見て取れます。また1920年代の構成主義的な画面構成が復活している部分が見受けられ、どちらかと言えば1920年代に弾圧によって一度消滅したプロレタリアアートが再び活性化したと考えるのが良いのかもしれません。

リアリズム絵画と漫画が大衆に理解されやすいという共通点を持つがゆえに、タブローと出版物の両面からイデオロギーの喧伝のために利用され続けていたというのは、本展覧会で初めて認識した事実でした。理想のためにある面では表現を誇張し、ある面では表現を簡略化するという美術的操作について、リアリズム絵画は現実を描いているという先入観ゆえに、漫画では人物や風景は単純化をされているがために覆い隠しやすいのかもしれません。この手法は資本主義においては広告・宣伝という方面で利用されているものでしょう。

そしてこれは展覧会の範囲外となることですが、なぜ1950年代までで本展の展示が終わっているのか。それはリアリズム手法が本拠とするメディアが変化したことにあるのではないかおと思いました。
1950年代になると、ルポルタージュは「現実を切り取る」ことができる写真に取って代わられることになったのではないでしょうか。とくに土門拳の仕事はリアリズム手法によるイデオロギー宣伝の方法を絵画から写真へと移行させるのに大きな役割を果たしたと思われます。

美術と日本の近代史

今回ここまで感想を書いてきた2つの展覧会は、いずれも「近代社会の中の美術」というものを大きく強調した展覧会です。
美術館の中で展開される歴史というのは、往々にして美術のみに対象を絞って作成された歴史です。例えば東京国立博物館の平常展や東京国立近代美術館の旧平常展を見ていると、まるで「美術史」というものが存在するかのように感じられます。それは社会の大きな枠組の中で美術が独自の地位を気づいており、芸術家たちは囲われた楽園の中で日を追求しているかのように語られることもしばしばありました。

しかし、特に近代においては美術も消費されるものの一つとして存在していると思います。作品のターゲットの地位や美術への理解の程度などによって、主題や表現の手法さえも左右されてしまうことがこの2つの展覧会から明らかになったように思われます。それは社会の思想の影響を受けながらも根源的な目標としては「美の追求」があるとしている従来の美術史とは異なる見方なのではないでしょうか。例えば新古典主義から後期印象派キュビズム・フォービズム・抽象表現主義まで連なる、美術理論の展開から必然的に生まれてくるような歴史のあり方とは大きく異なります。
それは社会史としての美術史です。誰が何のために美術を必要としていたのか、そこに美術を届けるためにどのようなことが行われていたのか。そうした歴史的な状況を正しく理解することによって、プロレタリアアートの一端としての漫画などのファインアートの系譜から漏れるものや、日本と植民地の表現方法の共通性の裏に隠された美術環境の違いといった、美術技法を超えた部分に対しても正当な評価を与えることができ、はては現在の日本においてクール・ジャパンの名目で様々に展開されている視覚表現の多様な作品を正当に評価できるようになるのではないでしょうか。

今後ともこのような社会と美術が密接に結びついていることを示す展覧会が多く開催されることを楽しみにしています。

「東京・ソウル・台北長春-官展にみる-それぞれの近代美術」は府中市美術館での展覧会は終了しましたが、兵庫県立美術館で7月21日まで開催中。
「われわれは〈リアル〉である 1920s -1950s プロレタリア美術運動からルポルタージュ絵画運動まで:記録された民衆と労働」は武蔵野市立吉祥寺美術館で6月29日まで開催中です。

宮崎進と石田徹也 抽象と具象

今回は神奈川県で行われた2つの展覧会の感想です。

神奈川県立近代美術館葉山で行われた「立ちのぼる生命 宮崎進」展と平塚市美術館で行われた「石田徹也展-ノート、夢のしるし」です。
この2つはともに負の感情を美術に落とし込んだ作家の展覧会という点で共通しているように思います。

「立ちのぼる生命 宮崎進」展

宮崎進氏は1922年生まれで、現在92歳。美術学校を卒業後徴兵され、終戦を大陸で迎えるとシベリア抑留を経験します。宮崎氏は復員後から20年以上たった1980年代から、この厳しいシベリアでの体験を作品として発表し始めます。
今回の展覧会は宮崎氏の回顧展と銘打っていますが、実質はこの1980年代以降の仕事をメインに構成されています。

宮崎氏の作品は30年~40年以上前の出来事について、自身が身をおいた厳しく恐ろしい環境とそこで垣間見た生命の輝きを作品にしています。その作品は殆どがキャンバスの上で立体的に色面構成で覆うひどく抽象的な作品です。展覧会のキャプションによれば、氏はシベリアでの経験についてとても具象画としては作成できないという趣旨のことを語っています。それは写実的に描くことによって宮崎氏が抑留体験を通して得た感情が画面の中で陳腐化されてしまうということなのかもしれませんし、写実的に描くために当時のことを思い浮かべる苦痛に耐えられないということかもしれません。
しかし抽象画ではありますが、画面を構成する色彩や凹凸はシベリアでの体験が私にはなものとして目の前に提示されているような気がします。冬の固く凍った大地、花の咲き誇る春、うず高く積もった泥濘。その中で強張る身体。少し前に満洲を舞台にした『けものたちは故郷をめざす』(安部公房著)を読みましたが、この小説で感じた大陸という地が圧倒的に力を持つ世界観が宮崎氏の作品にも共通して感じられました。

石田徹也展-ノート、夢のしるし」

石田徹也氏は1973年生まれ。1995年のひとつぼ展でグランプリ受賞。
しばしば、石田氏の作品は「現代社会を鋭く風刺する画風」と語られます。同じ顔をした男たちは、時に非生物と融合しながら社会に潜む憂鬱や不安を画面の中に表出させます。
平塚市美術館の展覧会では石田氏が日常生活の中でスクラップしたものや頭のなかに浮かんだイメージをメモしたノートを合わせて展示し、石田氏独特の世界観が展開される作品たちのイメージの源流を探り出そうと試みています。

石田氏の作品は1990年代のまさにリアルタイムな社会を描き出しています。時期としてはバブルの崩壊が顕在化し始めている時。徐々に働くことへの不安や消費社会システムへの疑念が浸透してきていました。そうした明るい時代が過ぎ去った時期に徐々に生まれてきた不安を石田氏はつかみとって、画面の中で具現化しています。それは器物や風景と融合した若い男として表されます。どこか生気がなく登場人物の間で視線が合うこともありません。それは確かに具象画ではありますが、実際に起ったことを描き出しているわけではなく社会に潜む不安のイメージを擬人化したものと考えられます。
現代の東京において孤独のうちに日々労働を行っていく、そんな非人間的な生活のなかで生まれる捉えようのない不安。それを「キン肉マン」の超人に通じるようなマンガチックな表現で、私たち観衆が感覚的に把握できるようになっています。しかしその感覚的な理解についても、現実としてその不安が存在することを受け入れると言うよりは、超現実的な表現によって呼び覚まされた感情を手がかりに、日々の不安のイメージを見せつけられるという、ある種強制性を持っているかのような受け止め方をしてしまいました。

「抽象」と「具象」のリアリティ

この2つの展覧会に公式にはなんのつながりもないわけですが、展覧会の中心となる制作年代も重なり、展示されている作品についてもどちらかと言えば仄暗い感情が絵画に落とされています。

そうした共通点があるからこそこの二人の作品を見ていると「抽象画」「具象画」それぞれのリアリティと言うものについて考えさせられます。
宮崎氏の抽象画から伝わってくる感情と石田氏の写実的な絵画から伝わってくる感情とを比較してみると、断然前者のほうが「リアル」であるというふうに感じられるのです。
もちろんそれは神奈川県立近代美術館の作成したキャプションの中で説明された事実を下敷きに、絵画を見ているからということもあると思います。しかしそれを差し引いても宮崎氏がシベリアの大地で身にしみつけた感覚が、丸められたキャンバスや油絵具の盛り上がりといったとてもフィジカルな要素や荒く力強い色彩から伝わってくるように思われるのです。そこには抽象化してもなお抑えきれない喜怒哀楽が存在し、具体的なイメージとして綺麗にまとまる前に観るものにぶつかってくるような思いにとらわれるのです。

一方で石田氏の作品を見るときに感じるのは非現実的な浮遊感です。
個別のイメージが具体的に描かれている中で、全体としてはありえないデザインの組み合わせが画面を構成しています。そのために私たちは石田氏の絵が現実を描いたものではないことがすぐに了解できます。
すると私たちは眼前にある絵画を何か象徴的なものであると考えて、現実世界から切り離された想像の世界において理路整然と画像の意味を解釈しようとします。そこで主題が現代社会であると認識される時、つまり私達自身が主題となっていると理解している時には超現実主義が精神分析的な無意識への接触を行うように、私たちは自分の心理の奥底にダイビングすることになります。
このために石田氏の作品を見るときには具象画を見ているにもかかわらず、リアルを思い起こすのではなく内省的な態度が誘発されるのかもしれません。

以上のように二人の作品を見ていくと、私たちがリアリティを感じるのは視覚以外の部分なのかもしれないと考えるようになります。
目の前にある画像が具象であれ抽象であれ、今見えている視覚の部分を超えて思考の中で理性・直感の両面から自分の精神の中で昇華する事によってリアリティを生み出すことができるのかもしれません。
「抽象のリアル」と「具象の非リアル」。この2つについて認識を新たにすることによって、私はまた自分と絵画の向き合い方について1つ幅広く考えられるようになったのかもしれません。