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宮崎進と石田徹也 抽象と具象

今回は神奈川県で行われた2つの展覧会の感想です。

神奈川県立近代美術館葉山で行われた「立ちのぼる生命 宮崎進」展と平塚市美術館で行われた「石田徹也展-ノート、夢のしるし」です。
この2つはともに負の感情を美術に落とし込んだ作家の展覧会という点で共通しているように思います。

「立ちのぼる生命 宮崎進」展

宮崎進氏は1922年生まれで、現在92歳。美術学校を卒業後徴兵され、終戦を大陸で迎えるとシベリア抑留を経験します。宮崎氏は復員後から20年以上たった1980年代から、この厳しいシベリアでの体験を作品として発表し始めます。
今回の展覧会は宮崎氏の回顧展と銘打っていますが、実質はこの1980年代以降の仕事をメインに構成されています。

宮崎氏の作品は30年~40年以上前の出来事について、自身が身をおいた厳しく恐ろしい環境とそこで垣間見た生命の輝きを作品にしています。その作品は殆どがキャンバスの上で立体的に色面構成で覆うひどく抽象的な作品です。展覧会のキャプションによれば、氏はシベリアでの経験についてとても具象画としては作成できないという趣旨のことを語っています。それは写実的に描くことによって宮崎氏が抑留体験を通して得た感情が画面の中で陳腐化されてしまうということなのかもしれませんし、写実的に描くために当時のことを思い浮かべる苦痛に耐えられないということかもしれません。
しかし抽象画ではありますが、画面を構成する色彩や凹凸はシベリアでの体験が私にはなものとして目の前に提示されているような気がします。冬の固く凍った大地、花の咲き誇る春、うず高く積もった泥濘。その中で強張る身体。少し前に満洲を舞台にした『けものたちは故郷をめざす』(安部公房著)を読みましたが、この小説で感じた大陸という地が圧倒的に力を持つ世界観が宮崎氏の作品にも共通して感じられました。

石田徹也展-ノート、夢のしるし」

石田徹也氏は1973年生まれ。1995年のひとつぼ展でグランプリ受賞。
しばしば、石田氏の作品は「現代社会を鋭く風刺する画風」と語られます。同じ顔をした男たちは、時に非生物と融合しながら社会に潜む憂鬱や不安を画面の中に表出させます。
平塚市美術館の展覧会では石田氏が日常生活の中でスクラップしたものや頭のなかに浮かんだイメージをメモしたノートを合わせて展示し、石田氏独特の世界観が展開される作品たちのイメージの源流を探り出そうと試みています。

石田氏の作品は1990年代のまさにリアルタイムな社会を描き出しています。時期としてはバブルの崩壊が顕在化し始めている時。徐々に働くことへの不安や消費社会システムへの疑念が浸透してきていました。そうした明るい時代が過ぎ去った時期に徐々に生まれてきた不安を石田氏はつかみとって、画面の中で具現化しています。それは器物や風景と融合した若い男として表されます。どこか生気がなく登場人物の間で視線が合うこともありません。それは確かに具象画ではありますが、実際に起ったことを描き出しているわけではなく社会に潜む不安のイメージを擬人化したものと考えられます。
現代の東京において孤独のうちに日々労働を行っていく、そんな非人間的な生活のなかで生まれる捉えようのない不安。それを「キン肉マン」の超人に通じるようなマンガチックな表現で、私たち観衆が感覚的に把握できるようになっています。しかしその感覚的な理解についても、現実としてその不安が存在することを受け入れると言うよりは、超現実的な表現によって呼び覚まされた感情を手がかりに、日々の不安のイメージを見せつけられるという、ある種強制性を持っているかのような受け止め方をしてしまいました。

「抽象」と「具象」のリアリティ

この2つの展覧会に公式にはなんのつながりもないわけですが、展覧会の中心となる制作年代も重なり、展示されている作品についてもどちらかと言えば仄暗い感情が絵画に落とされています。

そうした共通点があるからこそこの二人の作品を見ていると「抽象画」「具象画」それぞれのリアリティと言うものについて考えさせられます。
宮崎氏の抽象画から伝わってくる感情と石田氏の写実的な絵画から伝わってくる感情とを比較してみると、断然前者のほうが「リアル」であるというふうに感じられるのです。
もちろんそれは神奈川県立近代美術館の作成したキャプションの中で説明された事実を下敷きに、絵画を見ているからということもあると思います。しかしそれを差し引いても宮崎氏がシベリアの大地で身にしみつけた感覚が、丸められたキャンバスや油絵具の盛り上がりといったとてもフィジカルな要素や荒く力強い色彩から伝わってくるように思われるのです。そこには抽象化してもなお抑えきれない喜怒哀楽が存在し、具体的なイメージとして綺麗にまとまる前に観るものにぶつかってくるような思いにとらわれるのです。

一方で石田氏の作品を見るときに感じるのは非現実的な浮遊感です。
個別のイメージが具体的に描かれている中で、全体としてはありえないデザインの組み合わせが画面を構成しています。そのために私たちは石田氏の絵が現実を描いたものではないことがすぐに了解できます。
すると私たちは眼前にある絵画を何か象徴的なものであると考えて、現実世界から切り離された想像の世界において理路整然と画像の意味を解釈しようとします。そこで主題が現代社会であると認識される時、つまり私達自身が主題となっていると理解している時には超現実主義が精神分析的な無意識への接触を行うように、私たちは自分の心理の奥底にダイビングすることになります。
このために石田氏の作品を見るときには具象画を見ているにもかかわらず、リアルを思い起こすのではなく内省的な態度が誘発されるのかもしれません。

以上のように二人の作品を見ていくと、私たちがリアリティを感じるのは視覚以外の部分なのかもしれないと考えるようになります。
目の前にある画像が具象であれ抽象であれ、今見えている視覚の部分を超えて思考の中で理性・直感の両面から自分の精神の中で昇華する事によってリアリティを生み出すことができるのかもしれません。
「抽象のリアル」と「具象の非リアル」。この2つについて認識を新たにすることによって、私はまた自分と絵画の向き合い方について1つ幅広く考えられるようになったのかもしれません。