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ゴービトゥイーンズ展とこども展

六本木ヒルズでは子どもに関する2つの展覧会が開催中です。
今回はその感想を。

こども展

森アーツセンターギャラリーで開催されている「こども展」についてです。
19世紀から20世紀にかけての子どもの肖像画を集めた展覧会です。2009年にフランスのオランジュリー美術館で開催された展覧会の日本版ということだそうで、フランスと日本にある絵画で構成されています。
本展覧会では子どもの肖像画を巡る美術史的な検討とともに、モデルとなった子どもに焦点があたっています。

確かに本展では、モデルになった子どもとそれを描いた画家―親であったり、親の友人であったり―のエピソードをふんだんに盛り込んで、子どもと周囲の大人との幸せな関係の中で肖像画が描かれたことが伝わってきます。

クロード=マリー・デュビュッフの家族肖像画。
ベルト・モリゾの娘・ジュリー・マネをモデルとした印象派絵画。
モーリス・ドニの自分の家族を描いた絵。

第一次世界大戦前までの絵画には家族の中で子どもが幸せに暮らしている様子が描かれます。
モデルとなった子どもがいかに絵のモデルになることが退屈に思っていたなどという話も出てきますが、それさえも第三者的に見れば「ほのぼのエピソード」として受け止められるでしょう。
暗い雰囲気をまとっているのはウジェーヌ・カリエール《病気の子ども》ぐらいでしょうか。

それが戦間期以降の絵画になると、子どもだけをクローズアップする作品が並んでいます。
これはこの時代に入って、画家が子どもと家族という枠を越えて向き合うようになったことがきっかけなのかもしれません。それぞれの子どもが笑顔とも肖像画向けの真面目な掌状とも異なった多様な描かれ方をしているのを見ると「家族としての子ども」から「一人の人間としての子ども」という視点の変化が感じられます。

この展覧会であまり触れられていない部分としては、「家族としての子ども」以外の子どもを描いた作品です。
ド・モンヴェル《ヌムールの寄宿舎》やジョフロワ《教室にて、子どもたちの学習》はその数少ない例ですが、社会の中での子どもの存在はどのように絵画に描かれていたのかという視点は、別途検討される必要があると思われます。

それにしても展覧会冒頭のキャプションで「フランス革命期まで子どもたちは人間として認められていなかった。このため、肖像画などの題材にはされなかった。」というような記述がありましたが、これはどこを参照した記述なのかというのは少し気になります。
少なくとも王族や貴族の子女たちの肖像画はそれなりにあるわけですし、「庶民の子どもは」というエクスキューズをつけるのであれば、「そもそも、庶民が肖像画の対象になったのは……」ということになると思います。「人間として認められていなかった。」というのも事実なのか検討の余地が多いにあるでしょう。

もちろん近代家族が完成して以降、家族としての子どもの肖像画が増えているのは事実ですので、それに対する歴史的考察として付けた記述なんだと思いますが……


この展覧会は6月29日で終了ですが、その後大阪市立美術館へ巡回するそうです。

ゴービトゥイーンズ展 ―こどもを通して見る世界―

森美術館で開催されている「ゴービトゥイーンズ展」についてです。
アメリカのフォトジャーナリスト、ジェイコブ・リースが移民の子どもたちを「ゴービトゥイーンズ(媒介者)」と読んだように、さまざまな性質を超越する子どもたちに注目したというこの展覧会。20世紀初頭の作家から現代に生きる作家まで子どもをテーマにした選りすぐりの作品を展示しています。

今回の展覧会は「子ども」という媒介者を通して、社会の実像を見ようというテーマのもとに作られています。そして、展示されている作品では「子ども」がもつ様々な側面が強調されています。

例えば社会に縛られない自由さ。
例えば世界が小さいがゆえの繊細さ。
例えば大人への成長に向けての不安定さ。
例えば論理にとらわれない空想力。

これらは現代において「子ども」が持つと考えられている特徴です。
そして作家たちはこれらの特徴を踏まえて、社会を担っている大人たちには見えていない視点からの世界を気づかせてくれる、というのが今回の展覧会の構図になります。
スヘール・ナッファール&ジャクリーン・リーム・サッローム《さあ、月へ》、ウォン・ホイチョン《ああスルクレわが町スルクレ》などの作品では厳しい社会状況に対して、子どもの持つ「自由さ」を灯火として行動をしようというメッセージを発することが出来る作品ではないかと思います。また金仁淑の一連の作品では在日朝鮮人として生まれた子どもが、家族と一緒に写真をとっている。子どもたちの朝鮮学校での様子を写真としている。ただそれだけの作品のようにも思えますが、その背景に見える民族文化の中で子どもたちの個性のあり方を明らかにしてくれる、とても明るい写真です。

更にこの展覧会に展示されている作品たちは、私たちが成長するにしたがって、様々な能力を得ることと引き換えに見えなくなってしまった世界があることを思い出させてくれます。
小西淳也《子供の時間》では、子どもにみられる「視野狭窄であるがゆえに深遠な時空」が捉えられています。
これは大人との関係の外にも子どもが存在できることを表すと同時に、独りで遊ぶことが多かった私にとってはこの作品を見ると心の奥底に眠っていた記憶を呼び覚ます作品でした。
また梅佳代氏の《女子中学生》や近藤聡乃氏の《きやきや》など女性作家の作品で示される第二次性徴における肉体と精神の不均衡は、美術の外では秘すべきこととして忘れ去られていた思春期の感覚を改めて私たちに提示しています。

その一方で「子ども」を題材としたメッセージを見ている時、「子供らしさ」という概念を利用しているのではないかという疑念もいだきました。塩田千春の映像作品では子どもたちが生まれる前の記憶、生まれた直後の記憶というものを語っています。しかしこの「インタビュー」は明らかに大人の問いかけに合わせて子どもの側で作話しているように見受けられます。
おそらくこの作品の本来の見方ではないのでしょうが、その映像を見た時に大人によって書かれたキャプション「生まれる前後の記憶を語る子どもたち」と実際に起こっていることのギャップを意識せざるをえませんでした。
すると照屋勇賢《未来達》などいくつかの政治性のある作品などについて、かなり感情移入を避けながら作品を見ることになります。
芸術家が子どもたちを「ゴービトゥイーンズ」として利用して、社会に自らの考えを訴えているのかもしれないのです。

結局、私たちと「子ども」の関係は(再びの言及になりますが)小西淳也《子供の時間》に表されたような断絶が存在しているのかもしれません。そこに私たち大人が二度と入り込めない断絶が存在する限り、子どもたちの意思を忖度しているのではないかということを気にかける必要があるのだろうということも同時に考えるに至るわけです。