『アメリカの反知性主義』と日本の反知性主義

朝日新聞の書評で話題になったホーフスタッター『アメリカの反知性主義』をようやく読みました。

アメリカの反知性主義

アメリカの反知性主義

『昨今の日本の政治や言論において「反知性主義」がはびこっている、なんて嘆かわしい』という警鐘の記事の中で、関西大学竹内洋氏が言及したことで注目を浴びた本書。

確かに左右問わず、反知性主義的な言説が飛び交っています。政治における決断主義やアマチュアリズムの興隆。反原発運動や歴史修正主義を巡るアカデミズムの軽視。そしてウェブ上に形成される、知識人から大衆までを横並びとした特異な言論空間。2010年代に入って日本における反知性主義はその栄華を極めているように思われます。
今日本に吹き荒れている反知性主義の正体は何なのか見極めるため、本書をとおしてアメリカの反知性主義を巡る歴史を振り返ってみます。

アメリカの反知性主義

本書はアメリカの歴史家ホーフスタッターがアメリカ独立前後から1957年のスプートニク・ショックまでの期間について、アメリカで観察することができる「反知性主義的言説」とその歴史的背景を明らかにしています。
ホーフスタッターは反知性主義を一貫して、「アメリカの知識人に対する反感。そして知識人が信奉する考え方への反発」として描いています。そのため反知性主義は強い思想的背景を持っているわけではなく、知識人を構成する社会層と相対する集団が個別に発しているネガティブメッセージの集合体として描かれています。

本書では「反知識人キャンペーン」の主体として、下記のような人々の言説が分析されました。

  • 福音主義
  • ジャクソン流民主主義者
  • 起業家
  • 教育改革者

宗教保守からリベラルな教育改革者まで幅広い人々が反知識人キャンペーンを担っていたことを明らかにします。
彼らの知識人への言説は、まるで『オリエンタリズム』を読んでいるかのような偏見に彩られた誹謗中傷が目立っています。

曰く、決断力・行動力に乏しく男らしさに欠けている。
曰く、冷酷で反道徳的で時代遅れの考えに固執している。

このオリエンタリズム的言説とアメリカの反知性主義的言説の共通を見ていると、アメリカにおいて知識人が社会における他者として存在していることが明らかになります。

福音主義者・政治家・実業家・教育者、これらの人々はみな「大衆」に向かって呼びかけます。「知識人は〇〇である。彼らはアメリカでは役に立たない。」と。この言説は初め、ニューイングランドの上流階級を批判するためのものでした。建国の父達の時代から19世紀にかけて、大学は上流階級以外には縁遠い場所であり知識人を構成するのは彼らだったからです。古くからの大学が集まるマサチューセッツは知識人たちの本拠地でした。
一方でアメリカの民主主義の中で力を持っていたのは、かつてフロンティアで開拓を行っていた人々でした。「マニフェスト・デスティニー」に導かれた西漸運動はアメリカ国内における文化の集積を難しくし、また社会基盤のないフロンティアにおいては行動主義こそが正義でした。自分の力で生活ができ、民主主義政治の一員を構成できるのに十分な知恵を持っていれば十分というのがフロンティアに求められる人間像です。

このフロンティア・スピリットは長い間アメリカの魂を支える思想となり、この経験をもたない東海岸の上流階級から構成される知識人はアメリカ社会において他者となったのです。
もちろん知識人の側でも、俗世間から疎外されることによって精神の高邁さを保とうとする内的傾向によってアメリカ社会から遊離した存在になろうと、積極的に社会参加からの離脱を図っていた面もありました。

そんな社会から招かれざる他者として受け止められていた知識人が、社会的地位を向上させていた時期があります。それは概ねアメリカの危機の時代でした。金ぴか時代が終了後に到来した革新主義の時代、ニューディールです。
この時代には彼らの知識が必要とされ、ブレーントラストとして政策立案過程に関わることになります。
そして(本書ではあまり語られていませんが)第二次世界大戦です。この総力戦の時代において、アインシュタイン原子爆弾を提唱し、ルース・ベネディクトは日本人の文化人類学的研究を行います。科学者・人文学者を問わず戦争勝利のために駆り出されました。知識人たちはアメリカの存立に貢献することによって、「理解外の他者」から「アメリカ国民」になることができたのです。ここまでは本書における歴史記述から、私が理解した「アメリカの反知性主義」の概況です。

しかしここで問題となるのは、マッカーシズムです。
本書はマッカーシズムを初めとする知識人に対する攻撃が、スプートニク・ショックによって転換したことを契機に書かれています
しかし、残念ながら本書ではなぜ一度は蜜月となった知識人とアメリカ大衆の関係にヒビが入ったのか、十分に明らかにしているとは言えないと思います。気がついたらアイゼンハワーが大統領となり、マッカーシーは上院議会で猛威をふるい、知識人たちは迫害に怯える日々を過ごす。
この「気がついたら」の部分にこそ、「現代社会における反知性主義」の萌芽が見えてくるはずです。近代アメリカからのフロンティアスピリットの残滓というのも勿論あると思いますが、ニューディールから戦争の間に芽生えた和解を打ち崩すには全く別の潮流が会ったのではないかと考えられるのだと思います。

そこで本書の全体の流れから改めて考えてみると、「個人の価値」を礼賛する余裕が生まれることによって反知性主義が勃興するのではないかという考えが浮かび上がります。
知性主義が社会に適応されることは、しばしば「知性の劣った人間による判断は無価値となる。」というように理解されます。構成員の大多数の意思を制限するこの考え方は、個人の意思を尊重する素朴な民主主義社会・素朴な資本主義社会においてあまりありがたくはない考え方です。
そこで「民主主義・資本主義社会のなかで生活するには十分に知性的な人間」という評価尺度が生まれたのだと考えられます。政治や教育・経済といったことに対して論争が存在する時、その論争への参加するために必要な知性というものが存在するのだと思います。反知性主義とはこのボーダーを引き下げる運動であり、この運動の中では知識人層は抵抗勢力として理解されるのです。

アメリカ社会の安定によってこの評価尺度は大きく変化してきました。
不況や戦争による国家の存亡と向き合うような場合や、複雑化した産業構造の中で企業経営を行う場合など環境がコントロールできなくなると、「十分に知性的な人間」の尺度は高くなり知識人の活躍の場が増えていきます。
一方で好景気や戦勝によってアメリカ社会の安定の度合いが高くなると「十分に知性的な人間」の要求レベルは低下し、素朴な民主主義の復活が可能になるのではないでしょうか。

この考え方を元にするとホーフスタッターが提唱した「知性」と「知能」の違いについても理解できます。
この違いは「十分に知性的」という評価尺度の内容構成についての、知識人と経営者との間での相違によって生まれたのではないでしょうか。知識人たちは欧州文化から引き継いだ教養を重視し、そこから得られる思考様式を評価尺度とします。
一方で経営者たちは簿記やコミュニケーション術などを規準に評価をしたがります。「ビジネス上の知性」と呼ぶことができるかもしれません。それは元来の知性とは大きく異なりますが、資本主義における教養ということになるのかもしれません。

日本の反知性主義

翻って日本の状況を考えてみましょう。
戦勝後のアメリカとは全く異なる現在の日本社会において、余裕があるがゆえに「十分に知性的な人間」の要求レベルが引き下げられることがあるのでしょうか。むしろ新興国の国際社会での地位向上や長引く不況の疲弊によって「知性・知能」の高い人間の活躍を望む動きは強くなっているように思われます。しかし、一方で学者や知識人層、そして日本の重要なシンクタンクである官僚機構での議論を軽視し、これらの集団を介さない議論の形成を求める意見が強くなっています。

そこで日本の「反知性主義」勃興の原因として考えられるのは「十分に知性的」という評価尺度の崩壊です。いわばアノミー的な反知性主義です。
日本における1990年代から2000年代にかけての歴史的状況は、既存の知識人層の持つ政治に対する影響力を決定的に落とす事になりました。マルクス・レーニン主義の敗退は、日本のアカデミズムにおける左派勢力の信頼を失墜させました。一方で官僚に対する性接待の発覚は政策形成集団としての官僚のイメージを貶め、彼らの知的レベルに疑いをもたせるものとなりました。

こうした事件によって知的評価軸の安定が揺らいでいる中で、「それならば一般大衆自らが主導権をもって、政策を決定しよう。」という流れを創りだしたのが、小泉劇場と「マニフェスト中心型選挙」という思想でした。この政治思想によって私たちは知性的な議論を戦わせることを省略して、選挙という道具を持って政策を決定するという考えを持つようになりました。
この時、政策決定の議論に参加できる「十分に知性的」という規準は、選挙権を持っていること同義になるところまで引き下げられました。この時の選挙以降で度々問題になる「B層」や「論点集中型選挙」はこのような知性主義の崩壊から生まれたのではないでしょうか。

一方で経済界においてもグローバリズムの襲来は、日本型経営の積み重ねを全く無意味にするような新しい状況を生み出しました。そこで経済界でも彼らが必要とする知性(ホーフスタッター的な区別をつけるのであれば、知能)の再定義を行う必要が出てきました。ここで彼らの求める知能が欧州の文化によって規定された「知性」とはかけ離れていること、これが経済界の「反知性主義」の正体ではないでしょうか。

また日本において「反知性主義」が蔓延している一方で、根強く科学崇拝が残っていることも「理系学問の方が日本の歴史的状況において知性主義の崩壊の影響が少なかった。」という理由によって説明がつくのではないでしょうか。しかしこの知性主義の楽園も政治の側からの圧力をとおして、反知性主義に浸潤されようとしています。これが端的に現れたのが「STAP細胞」問題の政治的な部分や一般の受け止め方なのではないでしょうか。

日本の反知性主義を退治するために

ということで、ここまで日本の反知性主義の現状を考察してみました。
そこで日本の反知性主義を弱体化させるにはどうすればいいのかということを考えてみると、「知性の評価尺度」の再構築が必須となります。これは、「知識人層がどのような態度とどのようなレトリックを用いて、論争を行うか。」「知識人が論争を行う上でどのような立場を取りうるのか。」ということに尽きると思います。
現代の言論空間においてはWWWを通して自由な課題設定と自由な論証で大衆が議論を行っています。この空間の中において知識人としてどのような振る舞いをするのが正解なのか、ということを考える必要があるのだと思います。(勿論WWWでの議論には参加するものではない、ということもあるでしょう。)

そして同時に、「十分に知性的」であるという評価尺度の引き上げについて、納得できる理由を提示する必要があると思います。
反知性主義を議論から追い出すためには、一定程度知性的でであることが議論参加における関門となるように調整しなければいけません。ここの議論については反知性主義の側が現在は相当優位に立っているように思われます。
それは、戦前のアメリカにおける反知性主義を弱めることになった「国家の危機」というカードは現在、反知性主義の側に握られています。ただでさえ知性主義に基づく意見形成過程は、素朴な民主主義・資本主義と相反するものとなるうえに、これを乗り越えるための非常大権も反知性主義が先に使用しているのです。知性主義の正当性を認めさせることはなかなかに難しい作業です。

いずれにしても現代日本において「知性主義の復活」を目指すということはなかなかに難しいことです。
勿論相手の土俵に乗って勝つ、つまり選挙で勝つという方策もあるのでしょうがあまり効果が高いとはいえなさそうです。
それよりも私は「知性の力によって、知性主義は復活できるのだと信念を持つこと」という地道な作業以外に無いのだろうと考えます。それがどんなに長い茨の道であったとしても。