「写真」とはなにか 『これからの写真』@愛知県美術館

愛知県美術館の『これからの写真』展に行ってきました。

テーマは展覧会名の示す通り、これからの写真芸術のあり方について。気鋭の日本人写真家・アーティストの作品をもとに、技術の進化の中で変質していく写真の本質を見つめなおすことで、私たちはこれから「写真」をとおしてなにを見ていくべきかということを考える展覧会です。
展示されている作品の一部が「わいせつ」にあたるのではないかということで、警察の介入を受けたことでも話題になりました。
私の好きな写真家である川内倫子さんの作品も展示されるということで、名古屋でのサッカー観戦にあわせて訪れてみました。

「写真」の多彩さを極めた展覧会

今回の展覧会の出品作品は表現方法も様々です。プリントされて壁にかけられたいわゆる「写真」から立体造形・インスタレーション・ダゲレオタイプ・ビデオアートまで。用いられている技術も古い銀塩写真からデジタル処理をしたものまで。そしてストレートフォトからピクトリアルまで。
写真のコアな部分から周縁的な作品まで様々なパターンの作家から展覧会は構成されています。

芸術系の写真美術が多く(田代一倫の作品は報道写真ということができるかもしれません。)、写真とよばれる技術を利用したという共通点以外は、それぞれに特徴的であり「写真芸術」の懐の深さを印象づけます。

今回、特に印象に残ったのは新井卓の作品です。原子力の悲劇が生まれた場所を銀板写真で撮影するという彼の作品の中に明滅する白熱電球の下で長崎原爆の爆心地の写真を鑑賞するという作品があります。
この作品を明るくなった白熱電球で見るとき、頭上からの強烈な光と熱について意識をせざるを得ません。それはどうしても原子力爆弾の投下された瞬間を思いおこさせるのです。それは銀板写真の不鮮明な映像も相まって五感の全てで8月9日の長崎の記憶の一部を私たちに伝えています。これは写真を展示することによって伝わるメッセージを強化する試みであり、写真のもつ視覚体験に依存したコミュニケーションを超えることができていたのではないかなと思います。

写真芸術の脱構築

この展覧会では入り口で「鑑賞ガイド」が配られます。これがこの展覧会をキュレーターさんがどのような観点で構成したのかを考える手がかりとなるわけです。(もちろんガイドはガイドなので、この通りに展覧会を見る必要も無いわけですが。)
このガイドでは展覧会に出品した作家の作品を「写真美術のもつ二項対立の外にある」と位置づけています。

畠山直哉の作品は『写真は「機械による記録か/芸術表現か」ではない。』
新井卓の作品は『写真は「過去か/現在か」ではない。』
田代一倫の作品は『写真は「大災害と言う非日常か/普通の日常か」ではない。』

このように展覧会のガイドの記述において、よくある二項対立を超えた作品であることを提示することで写真芸術の新しい可能性を提示しようとしているようです。この展覧会ガイドによる多様な視点の立脚と、出品作品の多様な表現形式について両方の局面から見ると現在の写真芸術が展開している平面の広大さの一端がわかるのだと思います。
しかしその先の写真、つまり『これからの写真』については否定の羅列状態から鑑賞者たちがそれぞれに思いを巡らす必要があります。『これからの写真』ですから当然答えなんかあるわけもないですしね。

思えば写真の登場以来、平面に写実的な描写を残すことは画家の専門的な技能ではなくなってしまいました。そこから1世紀、絵画を中心とした美術は自分たちが特別にできることはなにかということを探ってきました。その過程に印象派があり、抽象表現主義がありダダがあるわけです。「絵画芸術」の自己分析の時代を経ることによって、私たちはいま改めて「絵画芸術」を素直に鑑賞することができるようになったのだと思います。

そして、今度は写真芸術の番が来たのだと思います。デジタル技術の進展によって、ウォーホル的に言えば「だれでも1枚分は写真家になることができる。」時代において、写真芸術はなにができるのかということを問いなおす時期が来たのかもしれません。そして、「写真芸術」の本質を探るにあたって、この展覧会に出品された作品の豊穣を忘れることはでき無いのではないのでしょうか。