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アール・ブリュットの取り扱い 「岡本太郎とアール・ブリュット-生の芸術の地平へ」展@川崎市立岡本太郎美術館

川崎市岡本太郎美術館で開かれている「岡本太郎アール・ブリュット-生の芸術の地平へ」展についてです。
生田緑地の奥、丘の上にあり川崎生まれの岡本太郎の作品を収蔵している美術館。
岡本太郎作品を中心として構成された平常展と、岡本太郎に縁のあるテーマで実施される企画展が開催されています。必ず平常展を見ないと企画展へとたどりつかない一本道構造になっていて、美術館としては珍しい建築になっている気がします。(東京富士美術館も同じような構造だったでしょうか。)

そんな岡本太郎美術館で現在開催されている企画展が「アール・ブリュット」に関する展覧会です。
アール・ブリュット」は西洋美術を体系的に学んでいない人物による美術を指す美術擁護です。一般的には「知的障害者」や「精神病患者」と言われる属性の人によって作成された美術作品のことを指しますが、本展覧会では世田谷美術館の素朴派コレクションやプリミティブアートにも範囲を拡大して作品を展示していました。
確かに展示されている作品たちは、既成美術の枠では捉えきれない造形感覚や色彩感覚をもち、岡本太郎が目指した「なんだこれは」という驚嘆を与える作品が展示されています。とくに中心となって展示されていたのは、アトリエを併設した福祉施設3箇所で作成されたバラエティ豊かな作品たちです。
利用する素材も、表現される対象も、それぞれに個性的でありどれもが生命力に満ち溢れた作品たちが所狭しと並べられている様子は歩みを進めるごとに面白さが沸き上がってきて、非常に満腹感が高い展覧会であったと思います。個々の作品は既成表現で簡単には捉えきれない部分も多く、なかなか「この作品のこの部分がイイ!」みたいなことは語りにくいのですが、訪れてよかったと思います。
そんな中で気になる点がいくつかありました。
1つ目は「アール・ブリュット」を作成する人々とそのアトリエや表現のための材料を提供する福祉施設の関係について、もう少し客観的に考える視点があっても良いのではないかなという点です。これは東京都美術館で開催されている「楽園としての芸術」展を見た時にも感じたことではあるのですが、どこまで福祉施設の名前、あるいは関係者が前面に出てくるべきかということです。
元々の「アール・ブリュット」は、『自らの表現欲求に突き動かされて制作を始めた』美術という広い捉え方でありました。ヘンリー・ダーガーもフェルディナン・シュヴァルも己の欲求のままに表現をしたのです。統合失調症を患っていたアロイーズも知的障害者であった小幡正雄も独りで黙々と絵を描いたのです。
そうした由来を持つ「アール・ブリュット」と福祉施設における芸術活動がどこまで共通していて、どこが異なっているのかという点についてはあまり触れられていません。今回の展覧会でも福祉施設において、彼らは自らの思い通りにのびのびと表現しているという紹介のされ方をしています。勿論、福祉的に芸術活動をすることの効能を否定するわけでもありませんし、何らかの矯正が加わっているということでもないのですが、やはり本質的に同じなのだろうかというのはこの手の展覧会を見ると考える部分ではあります。

もう1つが「アール・ブリュット」と「プリミティブアート」を併設していることについてです。
今回岡本太郎美術館で今回「アール・ブリュット」展を開催するにあたって、岡本太郎自身がこの分野に興味を示していたということを表す出版資料が展示されていました。
しかし、その資料には以下の様なことが書いてありました。

精神障害者・児童・未開人たちは、その未熟な精神ゆえに……」

この資料をもとに「アール・ブリュット」と「プリミティブアート」を無邪気に並列的に紹介することは果たして正しいことなのでしょうか。もし並べて紹介するのが良いということであれば、どのような共通点が見受けられるのか、そしてそれは何故なのかということを丁寧に説明する必要があるのではないでしょうか。
アフリカ美術については、西洋美術の範疇に入っていないだけで何らかの技法の伝承があるかもしれません。ティンガティンガ絵画については師弟関係のもとに技法が世界に広まっているようです。
岡本太郎の記述はその時代背景を考えると「しょうがない」といえるものでしょう。しかし、私たちがその記述を紐解き現代に甦らせるときにはそれ相応の仕方があるのではないかな、と思います。