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3年に一度の芸術祭 ヨコハマトリエンナーレ@横浜美術館

少し前のことですが、ヨコハマトリエンナーレに行ってきました。
といっても横浜美術館のみで新港ぴあにはいけておりませんが。
新港ぴあの部分についてはいつ行けるかわかりませんので、とりあえず現在までの感想を書いてみます。

2011年以来のトリエンナーレ森村泰昌氏キュレーションによる「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」です。
横浜美術館、新港ぴあの2拠点と複数の連携プロジェクトで構成されています。「芸術には記憶を忘却から救う力がある。」というテーマのもとに横浜美術館の収蔵作品や新作・インスタレーション・演劇など様々な形態の芸術を一堂に並べていて、横浜美術館では、そのうち絵画や彫刻といった静的芸術を中心に展示が行われています。

横浜美術館での展示の前半はより「公的」な記憶に関する作品が多く、後半になるにしたがって「私的」記憶に関する作品が増えてくるという構成でした。特に前半の展示には強いメッセージ性が感じられる作品が多く、特にタリン・サイモンによるインド・ウクライナ等の社会状況を写真とテキストによって記述するプロジェクトには、「出来事」を「歴史」に転換するために注がれた生の情熱が感じられ、その前の展示でコンセプチュアルなアートの森を抜けて完全に抽象芸術鑑賞モードになっていた私の思考は現実の圧倒的パワーに押し流されそうになった。
同じ「忘却からの救いとしての芸術」であっても『ミクロな感覚と向き合うこと』と『社会の抑圧に対抗すること』での振り幅の大きさが存在します。

更に同じ部屋では太平洋戦争に協力した詩人たちの国威発揚の詩と、戦争画の作成に反発し戦時中に困窮に陥った松本竣介の手紙を並べたり、バーミアン石仏を材料にした本の彫刻と言った政治的に多くの示唆を含む作品たちが並べられている中に、キュレーションを担当した森村泰昌氏が作成した「世界で一冊の本」が展示されています。それは十字架上の作品と向かい合う形で書見台に置かれていて、まるで教会の説教壇を思いおこさせるような空間になっています。

おそらく横浜美術館での展示はこの部屋が一番のメインなのでしょう。強い印象を与える作品が多く集まっている印象を受けました。森村泰昌氏をはじめとしてトリエンナーレに関係する芸術家たちが今の世界の状況に憂いを抱いていることを伝えています。

後半の展示では「芸術家の記憶や感性」と作品の関係ついてスポットライトを当てていて、内省的な作品が多くなっていきます。坂上チユキのペン画連作です。細かな線描によって作り上げられる異形の世界は、私たちが理性によって蓋をしている深淵を引きずり出しているような感覚を呼び起こします。それもまた人が社会で暮らしていく中で忘却していたものに含まれるということなのかもしれません。

横浜美術館での展示については、テーマが指し示す通り私たちが普段「気にも留めない/忘れている」ことについて、暴力的に表出させたり内省を促してみたりしながら、眼前に出現させられたということで非常に強い印象を残してくれた展示であったと思います。最近の「知性主義者」たちが陥っているヒステリー症も抑えられていて、鑑賞後の不快感というものはなかったです。

その一方で「ヨコハマトリエンナーレ」として見た時には少し物足りなさを感じます。
インスタレーションや野外展示についても最低限に抑えられていますし、トリエンナーレが巻き込んでいる場所も前回から更に縮小されている気がします。
今回の展示を鑑賞したあとも「国立西洋美術館で開催された、平野啓一郎キュレーションの展覧会とどの程度異なるのか。」ということを考えてしまいました。

これは公式サイトでも言及されていることですが、今回のトリエンナーレでは「祝祭感」をあえて排除しているからだと思います。しかし、美術を通して社会の現状を憂うと取組は、日常の場とリンクしている事こそが大事なのではないでしょうか。3年に1回の頻度で「芸術と社会の関係を省察してみる。」というのでは機会が少なすぎるような気がします。一方トリエンナーレだからこそできることということを考えると、3年に1回の「ハレ」という面についてはやはり強調していくべきなのかなと考えています。今年のトリエンナーレはどんなことをやるんだろうという期待感があると嬉しいと思います。

いろんな地方で芸術祭が行われるようになった今、ヨコハマトリエンナーレの独自性についても模索していく必要があると思いますが、次回2017年のヨコハマトリエンナーレに期待したいと思います。