魔法少女への道 美少女の美術史展@静岡県立美術館

美少女をあまねく集めた展覧会。

静岡県立美術館へ「美少女の美術史」展を見に行ってきました。
静岡県立美術館・青森県立美術館島根県立美術館の3つの地方公立美術館が連携しての企画展。2010年度の「ロボットと美術」以来となるトリメガ研究所の企画だそうです。

今回の「美少女の美術史」展はその名前の通り、美少女というアイコンが日本美術史のなかでどのように扱われたのか、浮世絵からコンテンポラリーアート、アニメーションまで幅広い対象から考察を行っています。
この展覧会では美少女をモチーフにしたイメージを幅広く収集していて、梶田半古のちょっとした小品や作者不明の風俗画、市井に貼りだされたポスターなど「よくそんなものを見つけてきましたね。」と言う作品も並べられています。
また、村上隆などのアニメ風美少女が描かれている現代アートが紹介されるのは勿論のこと、美少女フィギュアについて彫刻作品を語る具合にキャプションが作成されていたり、『クリィミーマミ』から『魔法少女まどか☆マギカ』までの魔法少女の流れを概観したりと、いわゆる「サブカルチャー」方面に対しても目配せをしている懐の深さがありながら、それでも古今東西の美術論を芯においたしっかりとした展覧会構成があることで内容が散開することなく理解でき、本当に面白い展覧会でした。

また、今回の展覧会にあわせて塚原義重監督が太宰治作『美少女』の新作アニメーションを制作しています。非常に幻想的な世界観をもったこの作品も「美少女」ばかりの展示を見続けた中ですっかり浮世離れしたこころで見てみると、自分が「美少女」の世界の中に取り込まれるような、しかし「美少女」に対して分析的な立場にも立っているようなそんなアンビバレントな雰囲気を覚えました。作品を収録したDVDがミュージアムショップに売っていたのでとりあえず購入しました。

「美少女」について考える。

本展覧会では特定された人物の肖像ではなく「匿名の少女」や「非実在の少女」の肖像が多く展示されています。こうした作品を見ていくと存在自体が抽象的な人物を表現することにはどんな意味があるのか、という疑問が頭に浮かびます。そこで美少女をモチーフとした様々な作品を見ながら、「美少女」を描くということはどういうことなのかを少し考えてみました。

まず前提として存在すると思われることは、「美少女というのは描かれるだけで作品となる」ということです。この展覧会で展示されている美少女の肖像画の多くは本当に素朴な日常のポーズを切り取ったものが多く存在します。中には座っているだけのものや、ウツロに転がっているものもあります。それでも作品として成立してしまう力を「美少女」は持っています。これは文学作品でもアニメーションでも同じだと思います。今回製作された太宰治作『美少女』のアニメーションは内容としては少女の独白です。それだけの内容にもかかわらず、様々な装飾が加わり鑑賞に耐えうる一つの作品になるのです。
これは「美少女」が先天的に持つ、言葉通りの「美」によって生まれる現象だと思われます。

そして、こうした絶対的な美である表徴に対して、人々が様々な意味合いを付与してきたことが本展覧会では如実に現れてきます。

例えば「少女たちの理想としての少女像」です。
明治以降に誕生した女学生という層の間で生まれた少女文化の中から立ち上がってきたイメージです。彼女たちは少女雑誌を手本としてファッションや立ち居振る舞いについての規範を身につけていきます。中でも重要な役割を果たしたのが挿絵でした。竹久夢二高畠華宵中原淳一といったイラストレーターが描いてみせた、華々しいファッションに身を包んだ女性像は女性の目指すべき理想を指し示すものでした。女学生たちが憧れる先輩たちの過ごす世界を具体化してみせたのが、これらの挿絵であったのだと思います。
一方で少女雑誌の時代による変遷をたどる(昭和館での中原淳一展などを思い出します。)とこれらの少女像は少女たちのセルフイメージの反映であると同時に、周囲の大人たちの理想のイメージが混ぜ込まれていることも注目されるべきなのかもしれません。
「理想としての美少女」というイメージは次第に社会的なものにまで拡大していきます。農村ではたらく女性たちは古き好き日本の風習を担う人々の、活動的でファッショナブルな女性像は文明化し消費社会を謳歌する人々の理想として描かれます。
それらは社会における女性に対する認識を表徴するものであると同時に、「美しき女性が楽しむ」という画面をとおして表徴されるもののイメージを上げるという作用も果たしているのだと思います。その極限に存在するのが、商品広告の世界でありましょう。

例えば「依代としての少女像」です。
美少女が持っている「美しい」「無垢」という好ましいイメージは、他のイメージと結びつけることができます。吉岡正人や藤野一友の作品のような神秘的な作品、松本かつぢ高橋しんのイラストなどは「祈り」や「聖」といったイメージと結びつきを意識して、清浄さを引き出しているように思われます。唐仁原希の不安やobの儚さのイメージから、Mrの過剰な幸福感まで美少女像は様々なイメージと結びついています。
一方で丸尾末広の描く挑戦的な美少女や中村宏の描く醜い美少女たちは、私たちが美少女に抱いている好ましさを揺さぶることで、強い印象を与えます。普段私たちは美少女を純真無垢な存在として捉えていますが、その認識に反したイメージを与えることによって、鑑賞している私たちをどきりとさせるのです。

例えば「欲望されるものとしての少女像」です。
美少女たちを鑑賞することを通して私たちは、彼女たちに対して一方的に想像を巡らせることが出来る立場となることができます。この特権的な立場を利用して私たちは彼女たちに様々に欲望をいだくことができるのです。美少女フィギュアに施されたマニエリスム的な造形は、体のラインを強調し美少女たちの肉体の魅力を過剰に引き出させます。どこか蠱惑的なイメージを持つ作品、魔性をほのめかす作品は、私たちがそのような欲望を持つことを許容するかのような想像を引き出すのです。
こうした少女像が最もよく作成されるのは「エロ」の世界でしょう。今回の展覧会では、公立美術館での開催ということでなかなかそういう展示は難しかったと思われますが、美少女と美術の関係を考える上ではより深く考えるべき視点なのではないかなと思います。
魔法少女」はこうしたイメージの集大成として考えることができるかもしれません。
彼女たちは少女の持つ「聖性」が転化した「守護者」のイメージから引き出された、マジカルな問題解決者です。彼女たちは一方で少女たちの理想を背負い、一方で男性たちの欲望を背負います。
超能力を持つ戦闘美少女たちは、美少女の日本美術史が築いてきたものの一つの完成形と言えるのかもしれません。