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『サッカーと人種差別』陣野俊史 サッカーはどこまで政治的になるべきか。

2014年のJリーグのトピックとして、「人種差別」と言うキーワードはさけて通れないものとなってしましました。
浦和レッズ無観客試合横浜Fマリノスのバナナによる差別。
これらの事件は「Jリーグはヨーロッパとは違う。」という矜持を反故にし、人種差別を自分たちのものとして考えなくてはならないということを日本のサッカーに関わる人々全ての眼前に突きつけました。
ということで、この本を読んでみました。

サッカーと人種差別 (文春新書)

サッカーと人種差別 (文春新書)

表題の通り「サッカー」と「人種差別」の関わりについての本です。
作者の陣野俊史氏はフランス文学の研究者ですが欧州サッカーにも造詣が深く、欧州でのサッカーと人種差別の現状についてフランスのサッカー界での例を中心にわかりやすく構成されています。またフィクションを引用しながら被差別者とサッカーの関わりあいを例示していくのも本書の特徴の一つでしょう。社会学歴史学を援用した分析などはありませんが、選手たちの肉声やエピソードを多く取り上げておりこの問題に対して直感的にイメージを把握するための入門書の役割を果たす本であると思います。
特に3人のサッカー選手――ジョン・バーンズ/ニコラ・アネルカ/クリスティアン・カランブー――の三人の生い立ちに寄り添いながら、人種問題の根底にあるものを明らかにすると手法はNumberのドキュメンタリーを読んでいるようでもありました。

サッカーはどこまで政治的なるべきか。

本書では人種差別に対するフットボールの側からのカウンターについても取上げています。
ダニエウ・アウヴェスへの差別に対するSNSでの連帯。FARE(Football Against Racism in Europe)によるキャンペーン。多くのフットボールコミュニティの人々に支えられながら、欧州サッカー界では人種差別に反対することが明確に示されてきました。
その中でも注目すべき活動としては、リリアン・テュラムによる教育への支援があります。テュラムは人種差別にはサッカーの世界のみで対応することは不可能であり、社会の中で教育にコミットしていく事によってしか解決できないと訴えるのです。
確かにボスマン判決は欧州統合という社会変化に伴って生まれたものでもあり、また移民問題などにもとづく憎悪もその感情が生まれる場所はスタジアムの外です。であるならば、スタジアムで人種差別が渦巻く状況を変えるための活動もスタジアム外から取り組まなければいけないのではないか。スタジアムの中でのキャンペーンを越えた社会活動が必要なのではないか。

本書では人種差別の問題だけではなく、宗教差別―女子サッカーにおけるヒジャブの取り扱い―や性差別・同性愛差別といった様々な差別に対するサッカー界での現状と取組を取り上げています。そのいずれも現在のところはテュラムのような一部の例外を除いてサッカー界内部に限った動きです。しかしサッカーの力を使って様々な差別とスタジアム外においても闘うことを選ぶことができるのかというのは今後の注目すべきポイントになってくるのかもしれません。
なぜなら「差別と闘う」ということは一定の政治性を帯びることでもあるからです。
サッカーは常に政治とは一定の距離を保っています。各国のサッカー協会が政府からの介入を受けるとFIFAの制裁が加わることになります。
サッカーと政治を結びつける考え方は円滑な試合開催の障害になることは、先日のアルバニア代表vsセルビア代表で起こった大アルバニア主義者の煽動した騒乱からも明らかです。
一方でFIFA人道主義の名のもとに政治的な動きを見せることもあります。ユーゴスラビア紛争・サライェヴォ包囲の際のユーゴスラビア代表に対する制裁措置はその現れでもあります。

さて差別の闘いは人道主義的であると同時に往々にして政治的な問題でもあります。
ロシアやアフリカの一部の国では同性愛差別と闘うことは政治的な問題となります。フランスにおける移民問題とサッカー界が正面から向き合った場合、サルコジ政権との衝突もありえたでしょう。
差別はスタジアム外に原因があるからこそ、その闘いも社会的・政治的なものにならざるを得ないのだと思います。
そういう状況の中でサッカーはどこまで「人道主義」を掲げるべきなのか。反差別の普遍性を強調することもできると思います。一方であくまでもサッカーはスポーツであり政治活動では無いという見方もあるでしょう。

少なくとも日本においては反差別に関する社会的な活動を行うことが、すぐに政治的な問題につながるとは思いません。であるならば、スタジアムにおける反差別宣言だけではなくスタジアム外にも積極的に働きかけることができればいいなと思います。

反差別の論理として本書では「コスモポリタニズム」を打ち出しています。しかしサッカーに関わるすべての人達にオシム氏のようなコスモポリタニズムを求めるのも難しい気がします。「サッカーネイション」という架空共同体を考えた上でのその中での構成員の平等というのも頭に浮かびましたが、掘り下げるのは色々と大変そうだし、素人考えにすぎないのでとりあえず保留。