モデルの彼女と素の彼女 「山口小夜子 未来を着る人」展@東京都現代美術館

東京都現代美術館で開催されていた「山口小夜子 未来を着る人」展へ行ってきました。


山口小夜子氏は1970年代から80年代を中心に活躍したファッションモデル。
高田賢三山本寛斎三宅一生といったデザイナーのショーに出演し、パリ・コレクションにも登場した日本人女性モデルの走りのような方だそうです。
1980年代後半にファッションモデルの一線を退いてからは、ダンスや演劇、ファッションデザインと様々に活躍の場を広げていて、さらにはインスタレーションや映像芸術への参加もしていたということで今回の回顧展が開催されたということのようです。


展覧会の前半は、モデルとしての山口小夜子の功績を追うパート。
様々なデザイナーのファッションショーでランウェイを歩く山口小夜子の映像・ファッション雑誌のグラビア・そして専属モデルを務めた資生堂のポスター等が展示されていました。
後半はモデルとして一線を退いてからの活動。
ダンス作品や人形演劇への出演映像、山口小夜子がデザインしたファッション、そして各地の芸術祭にも出品された映像作品やインスタレーションの記録などが並べてありました。
その他に彼女のスクラップブックや蔵書、レコードなどの展示。そして山口小夜子の没後、彼女にインスピレーションを受けた人々によるアートの展示も行われていました。


ファッションモデルの回顧展は初めてですが、普段美術館で開催される芸術家の回顧展とは一味違う雰囲気がありました。
ほとんど全ての展示に山口小夜子のイコンが含まれていることがその一因でしょう
そのために普段意識のうえに昇ることのない「美術作品におけるモデル」の存在について考えが及ぶことになりました。


モデルという存在は美術館という場においては造形・被写体として存在することがほとんどです。芸術家との特別な関係がある場合にのみ、「これは芸術家の〇〇である……」として触れられる場合がありますが、多くの場合にはモデルは匿名の存在です。
ファッション業界の場合は少しモデルの顕名性が上がるようにも思われますが(特に雑誌等メディアにおいては、個々のモデルが取上げられることが多いかと思います)、ファッションショーにおいてはやはり衣装が主役であり、衣装を引き立てるようにランウェイを歩くことが求められるようです。


今回の展覧会で「人間としてのモデル」にフォーカスが当てられる時、そこから見えてきたのは「モデルとして持つイメージ」と「素のモデル」の差異だったように思います。
山口小夜子」展の作品のほとんどにおいて山口小夜子は被写体として登場します。そのビジュアルから得られる印象は、アーティストのフィルターによって成型されたもののようにも思われました。


中村誠やセルジュ・ルタンスのイメージする山口小夜子


天児牛大がイメージする山口小夜子


生西康典+掛川康典がイメージする山口小夜子


そして死してなお、彼女の姿はアーティストのイマジネーションを刺激し、今回の展覧会でも山口小夜子をテーマとした近年の作品が紹介されています。山川冬樹氏の福島での踊りは山口小夜子の仮装をして踊り、山口小夜子と自身を一体化させるということまでしています。
アーティストが抱いた山口小夜子のイメージは、エキセントリックであり、伝統的であり、日本的であり、無国籍風であり、しなやかであり、ミステリアスであり。一見相反するイメージが共存する彼女の容姿が様々な作品を生み出す素となったのでしょう。


その一方で、今回の展覧会では山口小夜子の私物が展示されていました。
中原淳一の雑誌やレコード、ファッション雑誌のピンナップ、そして人形のコレクション。
そして彼女自身がデザインした演劇衣装や、彼女の企画した着物のファッションショーの映像もありました。


そうした展示からは、アーティストが投影するイメージとは異なった山口小夜子のもう少し素朴な面、というか人間的な部分というものがうかがえるような気がしました。
しかしこうした側面からの展示はあまり多くはなく、結局山口小夜子という人はどういう人だったんだろうという疑問は少し残ったようにも思われます。
その象徴として、今回の展覧会では山口小夜子の映像がたくさん出てくるのですが、私が彼女の声を聞いたのは最後の展示、山口小夜子による朗読劇の中でした。おそらく途中の人形劇の中でも聞けたのだと思いますが、それにしてもこれだけ彼女の映像があって彼女自身が発する声の少なさに気づいて少し驚いたものです。


様々なアーティストの想いを「着た」山口小夜子の後ろに見え隠れする素の山口小夜子の影が印象に残る展覧会でした。