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3年に一度の芸術祭 ヨコハマトリエンナーレ@横浜美術館

少し前のことですが、ヨコハマトリエンナーレに行ってきました。
といっても横浜美術館のみで新港ぴあにはいけておりませんが。
新港ぴあの部分についてはいつ行けるかわかりませんので、とりあえず現在までの感想を書いてみます。

2011年以来のトリエンナーレ森村泰昌氏キュレーションによる「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」です。
横浜美術館、新港ぴあの2拠点と複数の連携プロジェクトで構成されています。「芸術には記憶を忘却から救う力がある。」というテーマのもとに横浜美術館の収蔵作品や新作・インスタレーション・演劇など様々な形態の芸術を一堂に並べていて、横浜美術館では、そのうち絵画や彫刻といった静的芸術を中心に展示が行われています。

横浜美術館での展示の前半はより「公的」な記憶に関する作品が多く、後半になるにしたがって「私的」記憶に関する作品が増えてくるという構成でした。特に前半の展示には強いメッセージ性が感じられる作品が多く、特にタリン・サイモンによるインド・ウクライナ等の社会状況を写真とテキストによって記述するプロジェクトには、「出来事」を「歴史」に転換するために注がれた生の情熱が感じられ、その前の展示でコンセプチュアルなアートの森を抜けて完全に抽象芸術鑑賞モードになっていた私の思考は現実の圧倒的パワーに押し流されそうになった。
同じ「忘却からの救いとしての芸術」であっても『ミクロな感覚と向き合うこと』と『社会の抑圧に対抗すること』での振り幅の大きさが存在します。

更に同じ部屋では太平洋戦争に協力した詩人たちの国威発揚の詩と、戦争画の作成に反発し戦時中に困窮に陥った松本竣介の手紙を並べたり、バーミアン石仏を材料にした本の彫刻と言った政治的に多くの示唆を含む作品たちが並べられている中に、キュレーションを担当した森村泰昌氏が作成した「世界で一冊の本」が展示されています。それは十字架上の作品と向かい合う形で書見台に置かれていて、まるで教会の説教壇を思いおこさせるような空間になっています。

おそらく横浜美術館での展示はこの部屋が一番のメインなのでしょう。強い印象を与える作品が多く集まっている印象を受けました。森村泰昌氏をはじめとしてトリエンナーレに関係する芸術家たちが今の世界の状況に憂いを抱いていることを伝えています。

後半の展示では「芸術家の記憶や感性」と作品の関係ついてスポットライトを当てていて、内省的な作品が多くなっていきます。坂上チユキのペン画連作です。細かな線描によって作り上げられる異形の世界は、私たちが理性によって蓋をしている深淵を引きずり出しているような感覚を呼び起こします。それもまた人が社会で暮らしていく中で忘却していたものに含まれるということなのかもしれません。

横浜美術館での展示については、テーマが指し示す通り私たちが普段「気にも留めない/忘れている」ことについて、暴力的に表出させたり内省を促してみたりしながら、眼前に出現させられたということで非常に強い印象を残してくれた展示であったと思います。最近の「知性主義者」たちが陥っているヒステリー症も抑えられていて、鑑賞後の不快感というものはなかったです。

その一方で「ヨコハマトリエンナーレ」として見た時には少し物足りなさを感じます。
インスタレーションや野外展示についても最低限に抑えられていますし、トリエンナーレが巻き込んでいる場所も前回から更に縮小されている気がします。
今回の展示を鑑賞したあとも「国立西洋美術館で開催された、平野啓一郎キュレーションの展覧会とどの程度異なるのか。」ということを考えてしまいました。

これは公式サイトでも言及されていることですが、今回のトリエンナーレでは「祝祭感」をあえて排除しているからだと思います。しかし、美術を通して社会の現状を憂うと取組は、日常の場とリンクしている事こそが大事なのではないでしょうか。3年に1回の頻度で「芸術と社会の関係を省察してみる。」というのでは機会が少なすぎるような気がします。一方トリエンナーレだからこそできることということを考えると、3年に1回の「ハレ」という面についてはやはり強調していくべきなのかなと考えています。今年のトリエンナーレはどんなことをやるんだろうという期待感があると嬉しいと思います。

いろんな地方で芸術祭が行われるようになった今、ヨコハマトリエンナーレの独自性についても模索していく必要があると思いますが、次回2017年のヨコハマトリエンナーレに期待したいと思います。

台湾らしさってなに 台湾に関係する4つの展覧会から

2014年は台湾から多くの美術品が来ているようです。

5月「東京・ソウル・台北長春-官展にみる-それぞれの近代美術」@府中市美術館
(美術と日本の近代史 -官展とリアリズム美術の展覧会から- - 私を月に連れて行け)
6月「台北 國立故宮博物院-神品至宝-」展@東京国立博物館
(台北国立故宮博物院展 翠玉白菜”だけ”見てきた - 私を月に連れて行け)
8月「いま、台湾 -台灣美術院の作家たち-」展@渋谷区立松濤美術館
9月「台灣の近代美術-留学生たちの青春群像(1895-1945)」@東京藝術大学大学美術館

そしてこれから「リーミンウェイとその関係」展が森美術館で開催されます。

これだけ多くの台湾関係の展覧会が開催されていましたので、まとめて感想を書こうかなと思います。

「台湾らしさ」とはどこにあるのか。

東京藝術大学の展覧会で書かれていたキャプションには「台湾らしさ」という言葉が説明なしに書かれていました。この「〇〇らしさ」というのは本来慎重に見なければいけない言葉ではないかと考えています。〇〇に当てはまる語が民族や国家といったナショナリスティックな単語になる場合は特にです。
台湾の人々が描けばそこに「台湾らしさ」が存在するのか。それとも台湾の風景を描けば、「台湾らしさ」が自然と出てくるのか。そういったことを考えずにキャプションに盛り込むのは少し言葉が軽いのではないかなとも思います。

台湾という地域は近現代において大きな揺れ動きがあった地域の一つです。
20世紀前半は日清戦争の結果日本の植民地となり、20世紀後半以降は中華民国の支配を受けています。今回の4つの展覧会を通してみるとこの翻弄された台湾というものが見えてくるように感じられます。

まず日本の植民地としての台湾の美術を紹介した展覧会が、府中市美術館と東京藝術大学大学美術館の展覧会です。
この2つの展覧会では日本の植民地となって以降の台湾への油絵・西洋美術の移入について焦点を当てています。官展や美術教育といった日本が用意した制度の中で台湾の美術家たちがどのような絵画を描いたのか、ということが明らかにされています。
これらの展覧会で展示された作品は官展や東京藝術大学の出身者の作品とあって、時代の中でも保守的な作品が多いのではないかと思いますが、そうした中でも「台湾らしさ」が出ている/出していると両展覧会では紹介しています。
ここでの「台湾らしさ」とは、見たままで考えると「アジア的風景」と「南国的風景」という要素のことを言っているのかと思います。それは、ある意味「日本の西洋画」から生まれた台湾の西洋画が自らを描くときに自然と現れてくる「差分」のようなものではないでしょうか。たとえば印象派の画家が南仏にパリには存在しない陽光を見出すような。
「日本にはない要素」を台湾らしさと表現することは、ある種の日本中心主義に陥っているように感じられます。そもそも、台湾の西洋画は日本・日本人を通して伝えられたものが中心であり、そこに台湾に過去から存在していた「台湾らしさ」が現れてくることがあるのかどうか、慎重に検討しなければいけないのではないでしょうか。

第二次世界大戦後、台湾は中華民国に支配されるようになります。その後歩んできた道の大成が松濤美術館の展覧会です。
台湾美術院という日本の院展のような団体が、日本での故宮博物院の展覧会にあわせて美術院を構成する画家の作品を本邦で公開するという趣旨の展覧会です。
この展覧会の作品は、大別すると「水墨画」と「現代絵画」の2つに分類されます。
そしてその両者から感じるのは「漢民族の文明」の匂いです。現代絵画に表象される意匠や色彩を見ればいわゆる「中華文明」の影響があることが見て取れますし、水墨画については中華の水墨画の系統をしっかりと受け継ぎ、現代において再解釈を行っているような作品が多く見受けられました。
思えば台湾美術院に参加している大家は、国民党とともに大陸から台湾へと逃れてきた人も含まれています。さらに国民党は北京の故宮より多くの美術品を台北へ運び出し、台湾の地においても自分たちが中華文明の後継者であることを示そうとしています。
そういった中で求められる「台湾らしさ」は「中華文明の現代化」に他ならないのかもしれません。

こうしてみると150年ほどは台湾の「台湾らしさ」というものは台湾と外部の政治的関わりあいの中で規定されたものにも思われるのです。はたして「台湾らしさ」の本質はどこにあるのか。今後、台湾美術に関する考察が深まって明らかにされるといいのですが……

アール・ブリュットの取り扱い 「岡本太郎とアール・ブリュット-生の芸術の地平へ」展@川崎市立岡本太郎美術館

川崎市岡本太郎美術館で開かれている「岡本太郎アール・ブリュット-生の芸術の地平へ」展についてです。
生田緑地の奥、丘の上にあり川崎生まれの岡本太郎の作品を収蔵している美術館。
岡本太郎作品を中心として構成された平常展と、岡本太郎に縁のあるテーマで実施される企画展が開催されています。必ず平常展を見ないと企画展へとたどりつかない一本道構造になっていて、美術館としては珍しい建築になっている気がします。(東京富士美術館も同じような構造だったでしょうか。)

そんな岡本太郎美術館で現在開催されている企画展が「アール・ブリュット」に関する展覧会です。
アール・ブリュット」は西洋美術を体系的に学んでいない人物による美術を指す美術擁護です。一般的には「知的障害者」や「精神病患者」と言われる属性の人によって作成された美術作品のことを指しますが、本展覧会では世田谷美術館の素朴派コレクションやプリミティブアートにも範囲を拡大して作品を展示していました。
確かに展示されている作品たちは、既成美術の枠では捉えきれない造形感覚や色彩感覚をもち、岡本太郎が目指した「なんだこれは」という驚嘆を与える作品が展示されています。とくに中心となって展示されていたのは、アトリエを併設した福祉施設3箇所で作成されたバラエティ豊かな作品たちです。
利用する素材も、表現される対象も、それぞれに個性的でありどれもが生命力に満ち溢れた作品たちが所狭しと並べられている様子は歩みを進めるごとに面白さが沸き上がってきて、非常に満腹感が高い展覧会であったと思います。個々の作品は既成表現で簡単には捉えきれない部分も多く、なかなか「この作品のこの部分がイイ!」みたいなことは語りにくいのですが、訪れてよかったと思います。
そんな中で気になる点がいくつかありました。
1つ目は「アール・ブリュット」を作成する人々とそのアトリエや表現のための材料を提供する福祉施設の関係について、もう少し客観的に考える視点があっても良いのではないかなという点です。これは東京都美術館で開催されている「楽園としての芸術」展を見た時にも感じたことではあるのですが、どこまで福祉施設の名前、あるいは関係者が前面に出てくるべきかということです。
元々の「アール・ブリュット」は、『自らの表現欲求に突き動かされて制作を始めた』美術という広い捉え方でありました。ヘンリー・ダーガーもフェルディナン・シュヴァルも己の欲求のままに表現をしたのです。統合失調症を患っていたアロイーズも知的障害者であった小幡正雄も独りで黙々と絵を描いたのです。
そうした由来を持つ「アール・ブリュット」と福祉施設における芸術活動がどこまで共通していて、どこが異なっているのかという点についてはあまり触れられていません。今回の展覧会でも福祉施設において、彼らは自らの思い通りにのびのびと表現しているという紹介のされ方をしています。勿論、福祉的に芸術活動をすることの効能を否定するわけでもありませんし、何らかの矯正が加わっているということでもないのですが、やはり本質的に同じなのだろうかというのはこの手の展覧会を見ると考える部分ではあります。

もう1つが「アール・ブリュット」と「プリミティブアート」を併設していることについてです。
今回岡本太郎美術館で今回「アール・ブリュット」展を開催するにあたって、岡本太郎自身がこの分野に興味を示していたということを表す出版資料が展示されていました。
しかし、その資料には以下の様なことが書いてありました。

精神障害者・児童・未開人たちは、その未熟な精神ゆえに……」

この資料をもとに「アール・ブリュット」と「プリミティブアート」を無邪気に並列的に紹介することは果たして正しいことなのでしょうか。もし並べて紹介するのが良いということであれば、どのような共通点が見受けられるのか、そしてそれは何故なのかということを丁寧に説明する必要があるのではないでしょうか。
アフリカ美術については、西洋美術の範疇に入っていないだけで何らかの技法の伝承があるかもしれません。ティンガティンガ絵画については師弟関係のもとに技法が世界に広まっているようです。
岡本太郎の記述はその時代背景を考えると「しょうがない」といえるものでしょう。しかし、私たちがその記述を紐解き現代に甦らせるときにはそれ相応の仕方があるのではないかな、と思います。

「写真」とはなにか 『これからの写真』@愛知県美術館

愛知県美術館の『これからの写真』展に行ってきました。

テーマは展覧会名の示す通り、これからの写真芸術のあり方について。気鋭の日本人写真家・アーティストの作品をもとに、技術の進化の中で変質していく写真の本質を見つめなおすことで、私たちはこれから「写真」をとおしてなにを見ていくべきかということを考える展覧会です。
展示されている作品の一部が「わいせつ」にあたるのではないかということで、警察の介入を受けたことでも話題になりました。
私の好きな写真家である川内倫子さんの作品も展示されるということで、名古屋でのサッカー観戦にあわせて訪れてみました。

「写真」の多彩さを極めた展覧会

今回の展覧会の出品作品は表現方法も様々です。プリントされて壁にかけられたいわゆる「写真」から立体造形・インスタレーション・ダゲレオタイプ・ビデオアートまで。用いられている技術も古い銀塩写真からデジタル処理をしたものまで。そしてストレートフォトからピクトリアルまで。
写真のコアな部分から周縁的な作品まで様々なパターンの作家から展覧会は構成されています。

芸術系の写真美術が多く(田代一倫の作品は報道写真ということができるかもしれません。)、写真とよばれる技術を利用したという共通点以外は、それぞれに特徴的であり「写真芸術」の懐の深さを印象づけます。

今回、特に印象に残ったのは新井卓の作品です。原子力の悲劇が生まれた場所を銀板写真で撮影するという彼の作品の中に明滅する白熱電球の下で長崎原爆の爆心地の写真を鑑賞するという作品があります。
この作品を明るくなった白熱電球で見るとき、頭上からの強烈な光と熱について意識をせざるを得ません。それはどうしても原子力爆弾の投下された瞬間を思いおこさせるのです。それは銀板写真の不鮮明な映像も相まって五感の全てで8月9日の長崎の記憶の一部を私たちに伝えています。これは写真を展示することによって伝わるメッセージを強化する試みであり、写真のもつ視覚体験に依存したコミュニケーションを超えることができていたのではないかなと思います。

写真芸術の脱構築

この展覧会では入り口で「鑑賞ガイド」が配られます。これがこの展覧会をキュレーターさんがどのような観点で構成したのかを考える手がかりとなるわけです。(もちろんガイドはガイドなので、この通りに展覧会を見る必要も無いわけですが。)
このガイドでは展覧会に出品した作家の作品を「写真美術のもつ二項対立の外にある」と位置づけています。

畠山直哉の作品は『写真は「機械による記録か/芸術表現か」ではない。』
新井卓の作品は『写真は「過去か/現在か」ではない。』
田代一倫の作品は『写真は「大災害と言う非日常か/普通の日常か」ではない。』

このように展覧会のガイドの記述において、よくある二項対立を超えた作品であることを提示することで写真芸術の新しい可能性を提示しようとしているようです。この展覧会ガイドによる多様な視点の立脚と、出品作品の多様な表現形式について両方の局面から見ると現在の写真芸術が展開している平面の広大さの一端がわかるのだと思います。
しかしその先の写真、つまり『これからの写真』については否定の羅列状態から鑑賞者たちがそれぞれに思いを巡らす必要があります。『これからの写真』ですから当然答えなんかあるわけもないですしね。

思えば写真の登場以来、平面に写実的な描写を残すことは画家の専門的な技能ではなくなってしまいました。そこから1世紀、絵画を中心とした美術は自分たちが特別にできることはなにかということを探ってきました。その過程に印象派があり、抽象表現主義がありダダがあるわけです。「絵画芸術」の自己分析の時代を経ることによって、私たちはいま改めて「絵画芸術」を素直に鑑賞することができるようになったのだと思います。

そして、今度は写真芸術の番が来たのだと思います。デジタル技術の進展によって、ウォーホル的に言えば「だれでも1枚分は写真家になることができる。」時代において、写真芸術はなにができるのかということを問いなおす時期が来たのかもしれません。そして、「写真芸術」の本質を探るにあたって、この展覧会に出品された作品の豊穣を忘れることはでき無いのではないのでしょうか。

のうりんとサッカーのコラボ祭り FC岐阜vs東京ヴェルディ@長良川陸上競技場

川崎フロンターレvs名古屋グランパスの流れで、FC岐阜vs東京ヴェルディの試合を観戦しました。長良川陸上競技場はこれが初訪問。スタジアムグルメの豊富さで有名なFC岐阜の試合に一度行ってみたかったということと、18時キックオフということで余裕を持って東京に帰れるので、この機会にFC岐阜観戦です。

試合開始前まで

前日のフロンターレの引き分けで微妙ながっかり感を引きずりながら、名古屋を出発。名古屋から岐阜は東海道線の特別快速で30分弱。思ったより早く岐阜駅につきました。

試合開始は18時からでしたのでその前に少し観光として、岐阜城へ。
(ちょうど翌日の『月曜から夜ふかし』で「岐阜の観光名所」としてあげられていなかったのですが……)

岐阜城天守閣まで金華山ロープウェイと徒歩で行くわけですが、天守閣自体は鉄筋コンクリート造のよくある観光天守といった趣です。むしろロープウェイの山頂駅から天守までのちょっとした山登りのほうが楽しいかもしれません。天守までの道すがらには遺構や石垣なども散在し、岐阜城をめぐる戦国の争いに思いを馳せながらの自然の中のハイキングは、普通の歴史散歩とも少し異なり想像力を飛躍させる楽しさと山歩きの心地良い疲れを味わうことができました。

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写真は岐阜城から見た長良川陸上競技場。実は金華山の麓、岐阜公園から長良川陸上競技場まで徒歩でも行ける距離です。

その後、岐阜公園内の岐阜市歴史博物館を回りつつ長良川陸上競技場へ。
この日は岐阜県美濃加茂市をモデルとしたライトノベル・アニメ「のうりん」とのコラボイベントを実施していました。

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のうりんコラボグッズブースにはこんなかんじでフィギアも展示されていました。

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美濃加茂市の方々も聖地巡礼マップやコラボ菓子などをアピール

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こちらは多治見市を舞台にした「やくならマグカップも」を絡めたPR。多治見市民デーでもありました。

そして、のうりんコラボの目玉企画の一つは加茂農林高校で飼育している飛騨牛による碁盤乗りでした。

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飛騨牛のはるみ号。生徒たちには「はるちゃん」と呼ばれていました。

時間になると周囲は結構な人だかりができていて、イベントは盛況。
かぶりつきの場所を確保して見ましたが、近くで見ると改めて巨大な牛がのそのそと歩きながら小さな碁盤に乗るのは、どこかユーモラスさが漂いますね。2頭の牛のうち、1頭が普段と環境が違うからか盛大に糞をしてしまうというハプニングも有りましたが、農林高校の生徒たちの指示にしたがって、無事に碁盤乗りは成功。役割分担なんかも決まっていたので、普段から外でやる機会はあるんでしょうが、それでも無事にできるとホッとします。

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完成形はこんな感じ

のうりんコラボイベントはかなり盛況で、屋台村ではコラボポスターなんかを買っている人もたくさん見かけましたし、農林高校ブースで用意した商品も早々と完売。イベント全体の素朴な手作り感も相まって「お祭り」の雰囲気がありました。

また、FC岐阜名物・屋台村も堪能。定番の飛騨牛串・岐阜グランドホテルカレー・飛騨牛コロッケなどを頂きましたがどれも絶品でした。
牛串は今まで食べた牛焼き肉の中で一番美味しいんじゃないかという絶妙な柔らかさと焼き加減。
グランドホテルカレーはスパイスの辛さと野菜の甘さのバランスがとても良く、一口目であまりの美味しさに背中をのけぞるほど。
飛騨牛コロッケの揚げたての温かさとじゃがいものホクホク感。
屋台村を引っ張っている食べ物はさすがです。

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飛騨牛

デザートには農林高校ブースのキウイアイス。こちらものうりんコラボのパッケージですが、キウイの味とアイス本来の味のバランスがちょうどよくとても上品な味わいという雰囲気でした。

という感じでスタジアムまわりのイベントを堪能後、スタジアムへ入るとTVアニメ「のうりん」の歌らしきBGMが流れています。
更には選手紹介の前には、のうりんに登場する中澤みのり役の花澤香菜さんのアナウンスが結構な尺であったりしました。

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中沢みのりさん、オーロラビジョンもジャック

試合開始

試合開始前の話が非常に長くなってしまいました。
試合については簡単に。

試合内容自体はFC岐阜の完勝。しっかり守ってカウンターという流れが非常によく効いていて、効率的に3点をとった印象を受けました。ボールを奪ってシンプルに縦をつくサッカーはエンタテインメントとしても非常に魅力的で、このクオリティが毎試合出せれば観客増もはかどるのではないかなと思います。
それにしてもナザリトは本当に別格の存在。もう少しスタミナがあればJ1でも遜色なくやれるんでしょう。
守りの方もヘニキが速さ・強さを活かして東京ヴェルディ杉本竜士とのマッチアップを制し、安定をもたらしていました。特に後半は貫禄さえ感じました。

東京ヴェルディはスタメンに苦しさが現れていて、第3GKのホープウィリアムズが先発だったり、中盤に鈴木惇や澤井直人がおらず好調時のメンバーからはだいぶ変わってしまった印象。とくに中盤は組み立てに苦慮していて、最終ラインから杉本竜士への一本のパスに頼らざるをえない状況になってしまっていました。こうなると杉本とへニキとの相性の悪さが影響して東京ヴェルディは攻撃で苦しんでいる間にポンポンと点を取られてしまった感じがしました。
万全のスタメンが組めない時にどうするかというのが問題なのかもしれません。

のうりんコラボはひとまず成功

FC岐阜が快勝したこともありますが、試合前から試合後まで祝祭感あふれるスタジアムが実現できていたような気がします。
7000人強のお客さんも満足して帰られたんじゃないでしょうか。
のうりんコラボも食とアニメとサッカーの相乗効果が非常によく発揮されていました。ガールズアンドパンツァー×水戸ホーリーホックのように息の長いコラボになるといいと思いますし、更に次の展開があるのであれば非常に楽しみになりました。

11月には東京ヴェルディ×「とある科学の超電磁砲」のコラボイベントがありますが、同じくらいもしくはそれ以上に盛り上がることを期待しています。

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のうりんのゴール画像が都合4回登場。(1回はフライング) こんなに点が入るなんて縁起物じゃないでしょうか。

戦後日本住宅伝説 挑発する家・内省する家@埼玉県立近代美術館

そろそろ記事を書かないと変な広告が上がってきそうなので。

埼玉県立近代美術館にて『戦後日本住宅伝説 挑発する家・内省する家』という気合の入ったタイトルの展覧会に行ってきました。
挑発的なタイトルが気になったのと、この展覧会が終わると埼玉県立近代美術館は改装期間に入ってしまうのも相まって浦和まで出かけました。

この展覧会は、戦後の日本を牽引した著名な建築家の代表的住宅建築を回顧していこうという趣旨の展覧会です。対象は1950年代から1970年代に集中しています。
実際には中銀カプセルタワーや新宿ホワイトハウスといった住宅とは分類しにくい建築についての展示もありましたので、「小規模かつプライベートな建築」を対象としていると考えたほうがいいかもしれません。
展覧会の会場ではパネルによる説明、図面や写真資料に加えて、模型やビデオ映像を駆使することによってその住宅の特色、特に内部空間の構成について立体的に把握できるようにすることで理解しやすいようにしています。模型と映像資料の両方が存在することによって、住宅の大きさや光の入り具合、さらには住宅の色なども想像しやすいようになっていて、今まで訪れた建築系の展覧会では一番わかりやすかったです。
また、映像資料は既存のテレビ番組からの引用もあり、映像のレベルが高く10分以上の長い尺の中でタップリと解説をしてくれるので最後までじっくり見て楽しむことが出来ました。

戦後日本のプライベート空間

この展覧会で取上げられた作品はいずれも戦後建築史においてエポックメイキングな作品なのだと思います。あまり建築に詳しくない私でも取上げられた建築の名前くらいは聞いたことがありました。
しかしそれでも取上げられた作品についてはある程度「公/私」の指向についてばらつきがあるように感じられます。
例えば増沢洵氏の「コアのあるH氏の住まい」・清家清氏の「私の家」・東孝光氏の「塔の家」・菊竹清訓氏の「スカイハウス」といった作品群には、住居としてのプロトタイプ性を含んだ設計がなされているのではないでしょうか。一方で毛綱毅曠氏の「反住器」や石山修武氏の「幻庵」などは非常にデザイン性を前面に押し出した住宅ですし、伊東豊雄氏の「中野本町の家」は住民の生活に非常に強く寄り添って設計された住宅です。
住宅ばかりを展示することによって、このような住宅建築の「公/私」の二面性についてのグラデーションが明らかになり、その中から住宅の基礎原理というものが浮き上がってくるというのが本展覧会の肝かもしれません。

1950年代から60年代にかけて、日本における住宅のプロトタイプは以下の方向に修練していったように思われます。

  • 変幻自在な間仕切りを持ち、用途によって空間を住民自身が再構成する「設え」
  • 家族の気配を感じお互いに配慮することを前提として、空間を完全に分断しない半連続的な構造
  • 住宅の内と外との境界線の曖昧さ

これらの考え方は、テレビ番組『劇的ビフォーアフター』で取上げられるリフォームデザインによく見られる考え方であり、リフォームを必要とするようなタイプの家にとっては、現代にも通用する理論であるのではないでしょうか。

そして、こうしたプライベート空間の理論と都市の空間の理論をダイナミックに結合したのがメタボリズムグループでした。黒川紀章氏の「中銀カプセルタワー」に代表される建築ですが、むしろ「海上都市構想」などのダイナミックな都市デザインにも力を発揮し日本の戦後デザインを引っ張って行ったグループです。しかし、いかんせんこれらの構想はしばしば誇大妄想的であり、実現困難なものでした。1970年大阪万博、1973年中銀カプセルタワー完成といったイベントを迎えると、急速に拡大する都市と住宅という課題は消滅し、住宅から都市理論全体までを一気通貫するような考え方は少なくなってしました。
以後は住宅をしっかりと密閉することで、プライベート空間を護持するものとしての住宅が確立されるとともに、プライベート空間であるがゆえの自由さというものが生まれてきました。安藤忠雄氏の「住吉の長屋」や伊東豊雄氏の「中野本町の家」は外部との関わりはあまり強く求めず、都市から自立した住宅を標榜しているかのようです。

しかし、そろそろ住宅と都市との関係性を改めて問い直す時期が来ていると思います。高度成長期の膨張する都市と住宅・低成長時代のプライベートな住宅から、縮小する都市の中での住宅を先導していくような住宅デザインが今必要とされています。
東京への一極集中を促進するようなタワーマンションの乱立が、現代日本の住宅デザインの最先端となっています。天をも見上げる高さのマンションが個々別々に立ち並ぶ光景をどのように整理するのかが新しく問われているような気がします。

そうした現代の住宅建築から都市デザインまでの課題を認識させてくれる展覧会だったと思います。

現代美術界入門 「現代美術のハードコアはじつは世界の宝である」展

「現代美術のハードコアはじつは世界の宝である」展@東京国立近代美術館に行ってきました。
派手な女性像のポスターがあちこちに貼られていますが、展覧会の内容自体は実に正統的なものでした。

展示されているのは、台湾の電子機器メーカー・ヤゲオのCEOが設立した財団のコレクションです。
アンディ・ウォーホールゲルハルト・リヒターフランシス・ベーコンなどの現代美術の巨匠の作品やサンユウからザオ・ウーキーまでの中華系美術家の作品などが一堂に展示され、コンパクトに現代美術、特に現代西洋絵画のエッセンスを感じることができる構成になっています。
フランシス・ベーコン展で出品された『ルシアン・フロイドの肖像のための三習作』が再来日していて、意外な再会にびっくりしました。

今回の展覧会で特に注目したのが、そのキャプションです。

本展覧会のキャプションでは絵画の出自や画家の紹介など通常のキャプションに加えて、現代美術界の様々な側面を紹介するキャプションが存在します。
絵画の落札価格や現代美術市場の潮流などにも触れ、ザオ・ウーキーの死去(2013年)と評価額の変化や、市場での中国と日本の存在感の対比など「絵画の金銭的価値」ということを積極的に考えさせる情報が掲載されているのです。
現代美術はその表現が本当に多様化しており、共通の評価基準を持ちにくくなっています。この状況でひとつの規準として作品の市場価格が採用されることがあります。一見アニメフィギュア的な村上隆氏の作品は「価値があるもの」としてニュースで報道されるとき、そこには市場価格以外の裏付けは極めて希薄です。「スーパーフラット」などの美術理論は表に出てきません。
しかし本展覧会のキャプションたちはそれが美的規準を正確に反映したものではなく、社会情勢に影響されるものであることを改めて示してくれます。中国の台頭による美術品の人気の変動や美術館への収蔵とオークション価格の関係など、美術品の価格形成要因を明らかにします。

そして現代美術における「コレクション」の存在意義を強調している点も注目です。
今回の展覧会ではヤゲオ財団コレクションについてコレクターの趣向や生活に寄り添った存在であると同時に、美術館が担う公的な役割と日々新しい出来事がおこる現代美術の世界の間を埋める役割を持っていることを強調しているのです。
新出の美術潮流を評価し作品を購入することで経済的に支援を行うことや、美術館では所蔵・展示がしにくい飛び抜けた個性を持っている作品を収集することなど、公共機関である美術館では間に合わない領域を柔軟に埋めることができ、コレクションから美術館へ作品の貸出を行うことで、より奥行きのある展覧会を構成することが可能になっているという側面があるのです。

思えば、ここ最近コレクションに立脚した展覧会というのが徐々に増えているように感じられます。プライスコレクションを先駆として、今年はパワーズコレクションや石川コレクションの作品を中心とした展覧会がありました。東京オペラシティでは、コレクターに注目を当てた現代美術展も開かれました。日本の展覧会では西欧の美術館の収蔵品をもとに展覧会は今でも多く存在しますが、今後は徐々にコレクションをもとに構成された展覧会に置き換わっていくのかもしれません。

このように本展覧会のキャプションを読みこめば、現代美術界の様々な構成要素に思い至ることになります。
現代美術の粋とあわせて、丁寧に書き込まれたキャプションをじっくり読んでみるのも良いと思います。