タイモン・スクリーチ著 『大江戸視覚革命』

タイモン・スクリーチ著『大江戸視覚革命』を読了しました。


ここ最近、江戸絵画の再評価の動きもあり、本書の考えを元にした展覧会がサントリー美術館九州国立博物館などで相次いで開かれています。
今後この本の内容が常識として受け入れられていくのかなということで読んでみました。

本書は江戸時代のオランダとの接触が日本の文化に与えた影響を18世紀の文化文政期を中心に検討しています。
ヨーロッパから伝来した時計や顕微鏡・望遠鏡といった機械に触れることによって、日本の中に新しく発生した感覚が文化の中に消化されていく様子を、当時の出版物や浮世絵などを利用して解き明かしています。

この本を読んでまず認識を改めなければと思ったのが、江戸時代のオランダの存在とはどういうものかということです。
18世紀の蘭学、そしてオランダとの関わりといえば、大槻玄沢の芝蘭堂や杉田玄白の業績といった目立った事績がありますが、基本的に限られた人々による真面目な学問として認識していました。しかし実際には日本におけるオランダの存在感は大きく、市井の人々でも見世物の形やオランダ由来とされる物を触れることができ、黄表紙ではからくりや望遠鏡といった舶来の品を題材とした物語が作られていました。
こうした状況の中で「蘭学」もしくは「蘭」が一般に意味するものは医学や軍学といった実用的なものではなく、平賀源内の仕事に象徴されるようなものだったようです。例えばエレキテルのような精巧な機構を持つからくり、風来山人の黄表紙に描かれるような望遠・俯瞰という視覚体験や奇妙な地誌、多種多様な生物を微細にスケッチした本草学。こうした純粋に(知的)好奇心を満たすようなものだったようです。

本書ではこうした蘭学の移入にともなって、新しく「凝視(gaze)」という概念を獲得したということを述べています。時計などの精密機械の構造を視覚によって探ること、レンズを通して世界を覗くこと。そして得られた視界が日本人の心性の中に落とし込まれる事によって、本書で列挙され解き明かされている様々な表現を生み出すことになります。

思えば18世紀以降の江戸は木版の技術が最高潮に達した空間でした。物語や画集といった出版物が多く発行され、卓越した画力を持つ絵師の構想を再現するために、多様な木版画の技術が開発された時期です。黄表紙山東京伝や浮世絵の歌川広重葛飾北斎といった職業作家から吉原のサロンに通うアマチュアまで様々な人々が出版し、都市の人々は容易に出版物を手に入れることができるようになっていました。
「凝視(gaze)」によって得られた視覚情報はこの時期に花開いた出版文化に乗ることによって定着することができたのだと思います。同時代のヨーロッパでは出版の分野においては金属活字および銅版画という手段を用いていました。銅版画は通常木版画より描線は鋭く精緻な描写を可能にします。このため凝視によって得た視覚の記憶をあますところなく伝達することができます。(もしくはそのような心持ちになります。)このため司馬江漢や亜欧堂田善といった人々は西洋から銅版画の技術を学び取り、遠近法がしっかりと適用されたいくつかの絵画を残しています。
しかしオランダから来た新しい視覚も日本化されていく過程において、その媒体を木版に変化させていくのです。
浮世絵・黄表紙滑稽本といった大衆に流布した本から「本草学=博物学」の図鑑まで「阿蘭陀」的素材は木版出版に乗って伝達されます。それはヨーロッパの銅版画の技法を参照しながら、19世紀と時代が深まるに連れて独自に発展していきます。
このように考えると19世紀末にヨーロッパを席巻したジャポニズムの下地は、オランダとの交流の中で生まれた共通の視覚体験でありこの取っ掛かりからそれぞれ別方向に進化を遂げていった絵画が再びヨーロッパの地で混ざり合ったものであるということも想像できるのかもしれません。

そして本書が最も注力をもって描き出しているのは、日本がオランダを見る視線です。
本書において江戸時代初期には「南蛮」と呼ばれていたヨーロッパ人が、その卓越した技術を日本に伝えるに従って一目置かれるようになります。オランダからはるばるとやってきた人々は精巧な機械と「科学的思考法」をもたらしてくれる存在でした。一般に東インド会社の駐在員は本国において社会的地位は高くなく、密貿易を通して私腹を肥やす存在でした。それは同じヨーロッパ人から見るとともすると滑稽に見えたものです。
しかし、それでも日本人にとっては中華思想にかわる新しい世界観をもたらしてくれる存在でもありました。日本において欧州列強が存在感を高めるに連れて、漢学と蘭学が並び立つようになります。「凝視」と「観測」を支えとした「科学的思考法」は中国の凋落と明治維新後の近代化の過程で、日本人の中で「先進的な思考を行うための普遍的な技術」として教育を通して内面化されていくのです。
考えてみれば現在の日本における「ものづくり信仰」は日蘭交易の中で日本人の中に培われたヨーロッパ人のイメージ、「精確な機械」を日本人の中に取り込むことに原点があるのかもしれません。東芝の原点が「からくり儀右衛門」田中久重による時計やからくり人形の興業を出発点にしていたことを考えるとあながち間違っていないようにも思えます。
そして現在、機械製造における精密さにおいては欧米列強に並ぶことができるようになりました。しかし時代は第三次産業の時代・サービスの時代となりました。その中でかつて他者的あこがれから自己のあるべき像として内面化したモデルは少々古くなってしまったようです。
新しい日本の進むべきモデルは再び外国から見つけ出すことになるのか、それとも自ら何らかの理論を築き上げることになるのか。岐路に立つ現在、18世紀のオクシデンタリズムを振り返ることはひとつ有意義なことかもしれません。

コメ展@21_21 DESIGN SIHGHT 

今回は六本木の21_21 DESIGN SIHGHTで開催されている「コメ展」についての感想です。

コメとデザインの関係性

21_21 DESIGN SIHGHTは三宅一生氏が唱導している「国立デザイン美術館」の民間版として開始された美術館で、デザインに関する企画展を中心に展示を行っています。そんなデザイン美術館でなぜコメか。以下に展覧会サイトの引用をしてみます。

コメを英語にすると通常はRICEになります。しかし日本では、このように即物的な意味としてだけコメを捉えてこなかった歴史があります。それは、人の営みを支える「関係」であり「仕組み」であり「方法」なのです。これを、日本で育まれた優れたデザインと捉えることはできないだろうか。このような想いで、このプロジェクトが始まりました。
『コメ展公式サイト メッセージ』より*1

都市計画をデザインというがごとく、コメ―この『コメ』という語も食料としての「米」に限らず、藁や籾なども含んだ総体を表すための表現なのかもしれません―をめぐる環境・構造・ヒトのつながりについて考えてみようということなのでしょう。

この展覧会ではコメを巡る「文化」と「エコ」の意義を強調し日本人の中ではコメはただの食糧を上回る存在であると主張します。そして高齢化や食生活の変化、経済構造の変動など社会が急激に変化する現代にあっても、米作伝来から現代まで綿々とつながってきたコメを巡るデザインを維持していきましょうということを訴えようとしています。

まずコメ文化の尊さをアピールすための入り口として、伝統的なコメに関する(本来的な意味での)デザインについて回顧していきます。それは道具・暦・呪いと幅広い分野にわたっていて、生活のあまねく部分にコメとヒトとを結びつけるデザインが存在することを明らかにしていきます。特に現代社会において新しく生み出されたコメに関するデザインを並べることで、今の時代でも日本人とコメとの関係が切れていないことを思い浮かべることになります。

コメの未来のあり方について。

次に未来に向けてコメの文化をつないでいくために、デザインとしてなにができるかということを探っていきます。
今回の展覧会ではこの部分にあまり同意できない部分がありました。

未来にむけてこの展覧会で披露されたデザインは、生活者にコメを身近に感じてもらうということに主眼が置かれています。産地のイメージを意匠にしたコメ袋、コメの精製過程をわかりやすく体験できる装置、おみくじ、すごろくと美しく楽しくデザインされたモノは見る人の感覚的な好意を引き出します。

しかしこの試みはコメを今あるがままに愛することによって、目の前にある危機を乗り越えようという表明になってしまっているのではないでしょうか。確かに現在コメが抱えている諸問題の一つとして消費者のコメ離れがあることは確かです。コメを身近に思ってもらうこと、生産者の心を知ってもらうこと、こうしたことはコメ離れ解決の一助になるかもしれません。しかし取り巻く社会自体が大きく変わっている中で、昔の消費者の心を蘇らせることを目指すという方法で果たして日本のコメ文化を維持することができるのでしょうか。

『私たちが過去から引き継いできた緑あふれる郷土をそのまま次代にも渡していこう。』このような考え方を緑の保守主義というそうです。そういう意味ではこの展覧会の目指すところは、緑の保守主義の方法論に即してコメ文化を守っていこうという考えなのではないかと思います。
けれどもこの展覧会で掲げられているコメ文化も、それぞれの時代・それぞれの地域の状況とともに様々に変化してきたわけです。
日本国民があまねくコメを食べるようになったのは20世紀に入ってからであり、それまで庶民の間ではヒエ・アワなどを含んだ雑穀を主食としていました。また農業生産の歴史においても地方の百姓においても古代から漁業や林業に従事する人々の存在が明らかになったり、商品作物の登場以降、収穫から得た金銭で年貢用の米を買う人々が現れたことがわかっています。

多様な食と農業の状況があった中で、コメが日本人から特別な感慨を生み出した理由。それはコメが納税を通して特殊な経済的地位を獲得したからでしょう。古代の租庸調の時代からコメは年貢の納入の手段となり、あたかも貨幣としての働きをすることになります。更には中央政府との経済的なつながりだけではなく、天皇との霊的なつながりまでもコメが担うことになります。こうしてコメの価値を中心に経済が回っているコメ本位制の中でコメが物神化しただけでなく、国家を治める天皇の霊的源泉としての意味も持つようになりました。

しかしコメ本位制が終了し、天皇人間宣言を行った現代においてはコメの持っていた文化上の特殊な地位自体が終焉を迎えています。このような状況になってもコメは今まで通りに特別な地位を守り続ける必要はあるのでしょうか。
コメが農作物の中で特別な地位を持っているがゆえに、農業全体として歪んでしまっている部分もあるのではないでしょうか。今日本の食文化・農業・エコをデザイするというならば、コメと日本に住む人との新しい関係性を構築し現代の日本社会にあわせてリデザインを行う必要があるんだと考えます。

コメ展というコメをピックアップしたイベントの趣旨に反するかもしれませんが、「コメをいかに特別な地位から引きずり下ろすか」ということを考えないといけない。この展覧会を見てそのように感じた次第です。


展覧会にあわせてトークイベントをやっていたようです。中田英寿氏が参加していて、すっかり六本木系文化人になったななどという感想。
トークイベントはキュレーター・中田氏・日本酒の蔵元の方?の三人が参加していたみたいですが、開催場所がエントランスから続く階段下の小スペース。この建物にはホールとかないんですね。美術館のデザインとしてどうなんでしょうね……

江戸絵画についての展覧会×2

都内では江戸絵画についての2つの展覧会が同時に開催されました。

今回はこの二つの展覧会について並べてみたいと思います。*1

18世紀以降の江戸絵画(サントリー美術館)

サントリー美術館の「のぞいてびっくり江戸絵画」展では、18世紀以降の江戸絵画に見られる様々な視覚的実験の痕跡を明らかにしています。冒頭の謝辞にはタイモン・スクリーチ氏や田中優子氏の名前がありましたので、種本はスクリーチ氏の『大江戸視覚革命』でしょう。図録未購入なので両氏がどの程度この展覧会に関わっているかはわかりません。

展覧会の構成としては

  1. <遠近法>との出会い
  2. <鳥の眼>を得た絵師たち
  3. <顕微鏡>で除くミクロの世界
  4. <博物学>で観察する
  5. <光>と<影>を描く

という構成。<>の中身が18世紀に入って新しく絵画世界に登場したキーワードということだと思います。
蘭学の活発化によって望遠鏡・顕微鏡・博物学誌などの西欧科学の産物や遠近法や陰影法といった西洋絵画の技法が日本の絵師に取り込まれ、新しい視覚的感覚をもたらすような絵画が作成されたとしています。
展示は小野田直武や司馬江漢などの蘭画家から立版古・鞘絵・眼鏡絵といった見世物のための絵画、浮世絵、意匠まで江戸時代のありとあらゆる視覚芸術を対象にしており、ひとつの大きなテーマで18世紀・19世紀江戸時代の視覚をめぐる変容の全貌を明らかにしようという試みがよく現れていたように思います。

19世紀の江戸絵画(府中市美術館)

府中市美術館の「江戸絵画の19世紀」は春の恒例テーマ「江戸絵画」のうち、あまり注目されていない19世紀という時代について、同時代を横串に眺めてみようという試みです。
去年は「かわいい江戸絵画」というテーマでした。
確かに19世紀の絵画については、浮世絵については歌川広重葛飾北斎が特に評価され、近年歌川国芳を始めとしたその他の絵師も再び脚光を浴びつつあります。しかし浮世絵以外の分野については確かに円山応挙伊藤若冲池大雅といった大家が京都でしのぎを削った18世紀に比べると注目度が低い部分はあるかもしれません。

19世紀の日本絵画を全般的に回顧するというテーマだけあってかなり幅広い流派の作品を展示しています。
その中でも当時の社会的背景を元に4つの側面から検証しています。

  1. 主題や構図の新しい展開
  2. 文人画の隆盛
  3. 地理的興味の反映
  4. 西洋絵画の影響

上記の特徴についてはサントリー美術館での展覧会で触れられている18世紀に始まる視覚芸術の変化と延長線上に存在する物もあり、19世紀の江戸絵画にのみ見られる特徴というよりは、19世紀という括りで日本絵画の状況を取り出した時に見出すことができる特徴と言うべきかもしれません。
特に3・4の2つはサントリー美術館の展示と重複している主題ですし、1についても見方次第では同じものと言えるでしょう。一見、マニエリスム的なうねるような構図や精緻さを追求したような描写は18世紀の視覚革命での新しい絵画表現の展開を延長したものとかんがえることもできると思います。会場の説明では、絵画市場の拡大によって絵師間の競争が激しくなったことで新しいアイディアを競うようになったというような説明でしたが……

一方で展覧会の対象を19世紀に絞ることで、普段なかなかスポットが当たらない絵師に注目が集まるという効果があったのではないでしょうか。とくに本展で多くの作品が出展していたのは亜欧堂田善でした。司馬江漢などを差し置いて西洋絵画導入の第一人者として紹介されるのは少し違和感もありますが、回顧展以外の展覧会で亜欧堂田善がこれだけピックアップされていたのは初めてではないでしょうか。また一般の日本画や文人画についても、18世紀の有名ドコロを回避した結果、様々な絵師の紹介が可能になったという側面は間違いなくあると思います。狩野一信・岸駒・原在中などから、古市金峨・日根対山など本展で初めて知った絵師まで展示されており、入り口で配布されている画家解説はなかなかおもしろいことになっていました。

2つの展覧会をあわせてみると……

ということで江戸絵画に関する2つの展覧会を続けて見ると、江戸絵画の転換点はやはり18世紀の京都ルネサンスと言われる時代にあるように感じられます。浮世絵に限れば19世紀の化政文化と言われる時代に大きな変化があるように考えられますが、19世紀絵画という括りで際立った特徴を見出すのは少し苦しい部分もあるかもしれません。一方で前の時代に新たな局面を迎えた日本画は以降江戸時代が終わるまでの間、着実に根付き日本各地に幅広い絵師を生み出したのではないかと思います。イメージとしては断続平衡説のような発展の仕方といいましょうか。
いずれにしても開国によって洋画が本格的に流入してくるまでの期間の日本画の潮流について理解するにはちょうどよい展覧会だったのではないでしょうか。


府中市美術館の展覧会はもう終了していますが、サントリー美術館の展覧会は5月11日までです。

*1:東京富士美術館でも江戸絵画に関する展覧会が開催中ですが未見のため今回は触れません

バルテュス展@東京都美術館

今回は東京都美術館で開催中のバルテュス展について。

バルテュスについては、本人の作品を見るより先に原久路さんによる「バルテュス絵画の考察」でその存在を知りました。
その時は実物の写真のみを見ただけでその質感までは認識できず、面白い構図で描く画家だなあという感想でした。そもそも20世紀の画家だということも知らなかったぐらいです。
そんなほぼNo知識な状態で望んだ今回の展覧会。こんなに面白い画家がいた事を知らなかったのはもったいなかったというのが第一の感想です。

展覧会は日本での没後初の回顧展だけあって「バルテュスの芸術」と「バルテュスの人柄」との基本的なことがよく理解できる展覧会となっています。
今回バルテュス作品を見て魅力的だと感じたのは、その現実的な主題と非現実的な質感との間に生まれる神秘性と艶かしさです。
彼の作品において度々モチーフとして登場する少女たち。実在の少女をモデルに描かれた具象絵画だというのに、少女という枠組みを超えた超越的な女性美を醸し出しているように感じるのです。
直線的でありながら捻りや反りが持ち込まれた手足、美化をせずどこか肉感的な雰囲気を残している胴体、そして無防備に開かれた股間の描写。

なんとエロティック。なんとスキャンダラス。

展覧会の解説では「性の目覚め」という言葉が使われていましたが、そんなに生易しいものではないのではないか。
会田誠の展覧会に中止を求めたお歴々はこの展覧会にこそより強く中止を求めるべきではないでしょうか。
バルテュスの描く少女たちをヘンリー・ダーガーのヴィヴィアン・ガールズとポール・デルヴォーの描く女性たちと同じ無意識の女性への偏愛の発露、そんな存在なのかもしれません。

その一方で彼の作品を単なるポルノから一線を画しているモノはなにか。それこそ夢の世界を描いているかのような不安定な世界観ではないでしょうか。なぜ少女がこのような状況に置かれるに至ったのか、なぜこのような非現実的なポーズをとっているのか、必然的な理由がないことで生のエロスからは一歩距離を開けているような気がします。
また、その構成的で硬質な人体の描かれ方というのも少女を人形のように感じさせる要因となり、生々しい官能性を廃し、芸術として了解可能なものとして成立させているように感じました。

もちろん今回の展覧会では少女像以外にも、風景画や猫をモチーフにしたファンタジーあふれる作品なども展示されています。

そして「バルテュスの人柄」について、日本とのつながりの深さを強調した展示内容になっています。20世紀初頭のパリで日本美術に触れながら育った少年時代。その時代に彼が作成した日本人形が展示されていました。またバルテュスの配偶者は日本人女性ということで、彼女をモデルにした作品なども数点ありました。結婚前の恋人をモデルにした裸婦像もありましたが、浮世絵の影響を感じさせるような構成の作品です。

ほかにも勝新太郎里見浩太朗との交流の品や吉川英治の英訳作品の蔵書など、バルテュスが日本に持っていたイメージがなんとなく伝わってくるものが多く展示されていました。

全体としては、大回顧展としては展示作品が多いとは思いませんし代表作を網羅しているわけでもありませんが、その構成にバルテュス夫人の節子氏が関わっていることもあってバルテュス作品のエッセンスがわかると思いますし、またなによりバルテュス自身がどのような人であったのかということはよくわかると思います。節子氏以外のバルテュス氏の女性遍歴があまり明確にはなっていなかったなというのは少し残念なところではありますが。

2600円の話 岡田美術館と湘南ベルマーレ

4月20日は神奈川県西部の2箇所を訪れました。
1箇所が箱根にある岡田美術館で開催された「再発見 歌麿「深川の雪」」、もう1箇所がShonanBMWスタジアム平塚で開催された「湘南ベルマーレvs大分トリニータ」の試合です。

岡田美術館訪問

まず午前中は岡田美術館へ。
この美術館は2013年秋に新しく出来た美術館で、名誉館長の岡田和生氏(ユニバーサルエンターテインメント創業者)の個人コレクションを展示するために建設されました。場所は小涌園のすぐ隣、ホテル開化亭の跡地です。今回は2012年に再発見されメディアでも話題になった喜多川歌麿の肉筆浮世絵「深川の雪」が展示されるため、一目見ておこうと箱根まで足を伸ばしました。

岡田美術館を初めて訪問して驚いたのは入場時のセキュリティの厳しさ。入り口に金属探知機がある美術館は国内では他にないのではないでしょうか。携帯電話・カメラ・飲料などは持ち込み禁止ということで、カバンなどもX線検査機にかけられており、空港さながらのセキュリティチェックを通過して、館内に入ります。

展示は1Fが中国朝鮮陶磁、2Fが日本の陶磁、3Fが屏風絵、4Fが掛け軸・近代絵画・漆芸と数多くの作品が並べられていました。5Fにも展示があったようですが、時間の関係で拝見することはできず。Webサイトなどの情報からではおそらく仏像などが展示されていたようです。
5階建の館内を埋める美術品の数にも驚かされますが、その質にも非常に驚かされました。特に中国朝鮮の陶磁について収蔵品の優美さという点では今まで訪れた美術館の中で随一だと感じました。今までに訪れたことのある大阪市東洋陶磁美術館や松岡美術館などの収蔵品と比べても遜色はないのではないでしょうか。古代中国から清時代までバラエティ豊かでいずれ劣らぬ優品が並んでおり、息もつかせぬ展示内容です。少し下世話ですが丈のある万暦赤絵の壺などは「億近くするんだろうな」などという感想も浮かびました。
また、3F・4Fに展示されている日本の絵画についても、狩野派俵屋宗達に始まり東山魁夷までを含めた近世以降の日本美術史に名を刻んでいる絵師の作品が多く並んでおり、ここに展示をされている作品で日本美術の歴史の授業ができそうだなという感じです。全体として総花的ではありますが、春画の特集展示などの面白い企画もあり、またじっくり鑑賞したいと思わせる展示内容です。

そして、今回訪れた目的でもある作品『深川の雪』は2F日本陶磁の展示室の中央にあります。
一目見て存在感があると同時にいつまで見ても飽きない、そんな作品でした。
その私の背丈を超える画面いっぱいに描かれた深川遊郭の図。辰巳芸者や女中さんがところ狭しと描かれていますが、その表情や仕草などから一人ひとりに個性が与えられていることがわかります。雪化粧をした庭を眺めながている女性、料理を運ぶ女性、火鉢を囲む気だるげな女性たち。これだけの画中の女性たちを一人残らず魂を吹き込むのはさすが美人絵の巨匠、喜多川歌麿です。
さらにそれぞれの女性たちが着ている色とりどりの季節の衣装や、雀・猫・子どもなどの小さきものが画面に華と賑やかさを加えてくれます。
全体の構図から細部のデザインまで巧妙に構築され、個性的な女性たちが画面いっぱいに並べられている本作は間違いなく江戸時代の美術作品の傑作の1つだと言い切ってしまって良いのではないでしょうか。

ということで、お目当ての「深川の雪」以外の作品についても非常に楽しめた美術館でした。すこし展示作品数が多くてすべて回るのにはつかれますが、レベルはほんとうに高いです。個人的には大和文華館に初めて言った時のような衝撃でした。こんなにいい美術館に言ったことがなかったなんて、という感じで。

shonan BMW 平塚訪問

続いて、湘南ベルマーレ vs 大分トリニータの試合を見にshonan BMWスタジアム平塚に行きました。
岡田美術館を出た時点で、箱根の山は雨。
この日は予報が曇だったためレインコートの準備をせずに出てきてしまい不安でした。湘南のスタジアムはメインスタンドの中央部のみが屋根つきのため、濡れながらの観戦はテンション下がるなーと。しかし小田原まで降りてくると雨は降っておらず、ちょっと気温が寒いかな程度。これなら心配なくスタジアムに行くことができます。

平塚駅からシャトルバスに乗り、スタジアムへ。
スタジアム近くにある屋台村「ベルマーレフードパーク」でお昼ごはんを調達します。到着時刻は午後3時くらいでしたが、箱根からの移動で時間を取られてお昼にありつけていませんでした。フードパークではラーメンと餃子という中華食堂のような組み合わせを購入。「じゃんぼ」さんの餃子はあんに野菜がしっかりと入っていて、皮もパリパリともっちりのバランスが絶妙でとても美味しかったです。

席はメインスタンドアウェイ側に確保。
湘南名物の独特な選手紹介が始まると徐々にスタンドも試合に向けてボルテージが高まっていきます。

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コレで「カミソリ」という読むキャッチフレーズ。今年のキャッチフレーズは「湘南の〇〇」が多かったですが、ネタ切れ?

試合は8連勝中の湘南が前半からペースを握って進んでいきます。
湘南ほんとうにすごいですね。プレスの強度といい、奪ってからの展開といい、J2ではちょっとやそっとじゃ崩れたりしそうにはない感じです。とにかくボールを失った瞬間・奪った瞬間からの攻守のスイッチがバシバシ切り替わっていく感じは、試合から目を離す隙を与えませんでした。確かにこのサッカーは一見の価値があるように思います。夏になるとまた違った要素が必要になりそうなので、今のうちに湘南イズムバリバリのサッカーを見ることができて良かったです。
前半は大槻選手によるスーパーなミドルシュートとセットプレーからの詰めで遠藤選手による得点で2-0で終了。

後半になると徐々に大分もペースをつかみ始めます。センターバックの強い守備から湘南のブロックの間にパスを入れ始めて、ゴール前に迫るシーンも度々見られました。後半途中には元川崎の木村祐志風間宏矢も出場し、攻勢を強めていました。しかし、いかんせん決定力が足りなかった。風間宏矢センターフォワードの位置で出すくらいなのでフォワードの人材があまりいないのかもしれませんが、もう少し枠を脅かすシーンがあればまた違った展開もあったかもと思います。それにしても高松ってどうしたんでしょう。ベンチ入りもしていませんでしたが。
結局、岡田・ウェリントンに効率よく決められて最終的には4-0で湘南の勝利。スコアほど力の差があったようには思いませんが、湘南が効率よく点を決めた部分もありなかなかインパクトの有るスコアで終わりました。

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三点目の時の岡田選手のシュート。体いっぱいを使っての渾身のシュート

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元川崎の木村祐志選手・風間宏矢選手が出場も及ばず

2600円の話

で、表題の2600円の話になるわけです。
この日に訪れた二つのイベントはどちらも実費ベースでは2600円でした。岡田美術館の方は定価2800円ですが、箱根湯本駅で200円割引券をもらい2600円を支払いました。一方、ベルマーレの方は立ち見席以外の一番安い席ということで、メインスタンド・バックスタンド自由席はどちらもお値段一緒で2600円でした。

これは岡田美術館への道すがらで聞いた話ですが、この2600円という金額は全国の美術館で2番めに高いという噂です。ちなみにコレより高いのが鳴門大塚国際美術館(3240円)らしい。確かに他の美術館と比べてお値段はかなり高いです。しかし上記の通り展示作品もレベルが高いですし、展示施設がかなりグレードの高いものを使っているようで、東京国立博物館に匹敵する鑑賞環境が用意されているように思いました。あの映り込みの少ないガラスケースは相当高いはず。
というわけで岡田美術館の入館料については、少し驚きましたがまあ納得できないこともないと言った感想です。

そこで湘南のメインスタンド2600円。
屋根なし(実際この日は雨を心配しながらの観戦でした。)・外で2時間・勝敗の保証なしと考えると「うーん」となってしまうわけです。今の湘南であればサッカー観戦が好きな人から見れば十分納得の行く試合ができているんだと思います。しかし、サッカーに特にフックがない人にとって休日に2600円使うのはそこそこレベルの高いことなのだなあ、と美術館の入場料と比較して改めて実感。普段はシーズンチケットなんかを利用しているわけであまり気にしていませんでした。
映画も一本2000円弱なんですよね。さらに野球も2000円台前半ですが、ドーム球場や雨天中止のお陰で、雨の中で観戦・応援ということはないですからね。椅子も一人一個ありますし。
だからこそ、特にサッカー自体に興味を惹かれない人を誘引するための「フードパーク」であったり、様々なイベントであったりという部分を頑張らないといけないということなんですよね。サッカーだけで食べていけるなら、そんなに簡単なことはないわけで。そしてJリーグがスタジアムの屋根、および設備の充実を喧しく言うようになったのもムリもありません。(個人的にはスタジアムをライセンス規準にするのは反対ですが)

今後スタジアム設備の充実がはかれれば、日本で2番目に高い入館料の美術館との観戦環境の差は縮まるかもしれませんが、その時には今回座ったメインスタンドの料金も値上がりしているのだろうなと思うと複雑な気分です。
競合する他のエンタテインメントとの価格と環境のバランスという点ではサッカーはかなり不利な勝負をしなければいけないというのを改めて感じた日曜日でした。

MOTアニュアル2014 フラグメント―未完のはじまり― @東京都現代美術館

4月12日は東京都現代美術館におじゃまして、「MOTアニュアル2014」と「驚くべきリアル」の2つの展覧会を拝見してきました。
今回はそのうち「MOTアニュアル2014」について、本当に取り留めもなく頭に浮かんだことを書いていきます。構成とかない感じで。

「MOTアニュアル」は毎年、今来ている芸術家6人を一堂に会して展覧会を行うという企画です。
毎年キャッチフレーズが決まっていて、今年は「フラグメント-未完のはじまり」というフレーズでした。
取上げられた作家は、

  • 高田安規子・政子
  • 宮永亮
  • 青田真也
  • 福田尚代
  • 吉田夏奈
  • パラモデル

の6組のアーティストでした。


この中で高田姉妹は川崎市市民ミュージアムの「セカイがハンテンし、テイク」展で、福田尚代さんはミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションの「秘密の湖」展で、パラモデルさんは東京ステーションギャラリーの「始発電車を待ちながら」展で作品を拝見したことがありました。


今回のアニュアルの出展作品は小品や簡潔な作品も多く、かなり静かでどこか哲学的な雰囲気がある作品が並んでしました。
限定的で大仰な仕掛けは無くとも、世界に隠れている重層性や無限性を感じさせてくれるようなそんな展覧会でした。個人的には大きな音や明滅する光のような刺激の強いものは苦手なのでこうした構成の展覧会は非常に感じ良く拝見することが出来ました。


少し個別の作品を振り返ってみます。
私の感じ方の分類は大きく二つに分けられます。
一つ目は日常で見かけるモノたちに手を加えることによって新しい意味を明らかにする作品です。


高田姉妹の作品や福田尚代の作品を目の前にすると、身の回りの小さきものたちが隠し持っている二重・三重に折り重なった意味と対峙しているのではないかという感覚が生まれてきます。特に福田尚代の作品は、「秘密の湖」展で出品されたモノと同一の作品もありますが、 今回のMOTアニュアルでは作家自身が記述した作品誕生の物語も合わせて鑑賞することができます。
福田尚代の言葉を通して、彼女がモノとどのように向き合い、モノを芸術というカテゴリへ導いたのか、その過程と結果とを一度に考えることが出来ました。


ただ上記に述べた新しい意味というのは、私が会場で「作家の意図」を勝手に空想してニヤニヤしているものです。展示されている作品の原材料を離れた意味を空想することの面白さ。そういった『自由な発想』をすることを是にしてくれる作品たち出会ったのだと思います。


もう一つの別の感想を持ったのは吉田夏奈やパラモデルの作品です。
これらは分断や反復といった手法を用いて展示空間を日常の空間から異化することによって、より世界の連続的な空間の大きさを意識させてくれます。特にパラモデルの壁面を反復した意匠で覆い尽くす作品からは、何故か森見登美彦四畳半神話大系」の最終章に出てきた、延々と続く四畳半世界が思い浮かびました。
あの世界の無限大の広さを眼の前に提示しながら、その中で客観的に自分の座標を定めることを促すことによって決して絶望へと流さない、そんな感覚が再び現前に立ち上がりました。
こうした概念的に世界と向きあわせてくれる作品は、一人の人間と世界全体が向き合うことを主題にした「セカイ系」作品で育ってきた私にとってはある種好物なのかもしれません。
作品と向き合い切り取られた先の構造まで想像をふくらませていくだけで非常に楽しむことが出来ました。


今回の「MOTアニュアル」のキャッチフレーズが「フラグメント」ということで、展覧会の冒頭の挨拶パネルでは『膨大な情報があふれる現代においては云々』といった事が書いてあり、どうもそれにだいぶ引きづられた鑑賞をしてしまい上手いこと展覧会を楽しめたのか不安でした。しかし改めてWebサイトをみるともう少し軽い意味で捉えてよかったのかなというようにも感じています。
それはフラグメント=世界の欠片という文字通りの意味として受け取ることによって、この展覧会に出品された作品からは世界の広大さと深遠さを感じることができるという読みでしょう。

あそびのつくりかた @ 丸亀市猪熊弦一郎現代美術館

4月5日のカマタマーレ讃岐 vs 栃木SCの試合終了後、シャトルバスに乗り駅前まで戻ります。
駅前に戻る頃には試合途中から降り始めた雨が本格的なものになり、寒気が強くなっていましたが、次の目的地なら平気!


ということで丸亀にやってきたもう一つの目的「丸亀市猪熊弦一郎現代美術館」を訪れました。


猪熊弦一郎現代美術館は1991年開館という地方の現代美術館としては水戸芸術館などと並んで草分け的な存在。東京都現代美術館の開館が1995年ですのでそれよりも早いんですね。
丸亀市生まれの猪熊弦一郎氏の作品を並べる常設展とあわせて、意欲的な現代美術の企画展を行っていることでも知られています。
香川県にあるということで行きたいと思ってもなかなか気軽に行くことのできない美術館ですが、今回のアウェイ遠征が大チャンスということで試合の後に足を運ぶことになりました。


巨大なオブジェに出迎えられて、エントランス広場を抜けて奥の入口から中に入るとすぐにチケットカウンターです。
猪熊弦一郎氏の常設展とあわせて、今回はちょうど企画展「あそびのつくりかた」が開催されていましたので、拝見することにしました。合計950円也。


階段上がって2階が常設展。現在は『整然たる都市ーにぎやかな自然』というテーマで、1960年代後半にニューヨークで描かれた都市をテーマにした作品と、1970年代末から描かれたハワイの自然をテーマとした作品群がそれぞれ向かい合わせの展示室に並べられていました。
1960年代の都市の形象は単色をベースにした整然とした構成でどこかクールさを感じさせます。一方で1980年代を中心にハワイなどの自然を描いた作品は形が躍動しており、それぞれの図形の関係性を私たちが想像する中で物語が立ち上がってくるような能動的な作品です。この時代によって大きく変化した猪熊弦一郎の作風を二つの展示室でわかりやすく対比されていました。
2Fの遮蔽物の少ない構造のお陰で、この二つの展示室はお互いに見通せるようになっており、この変遷をじっくりと見比べることで、多彩な形のあり方を楽しむことが出来ました。


続いて3Fが企画展スペース。今回は「あそびのつくりかた」展。
子どもたちの遊びのあり方が変化してゲームやテレビなどに引き寄せられる中で、昔は遊びを通して学んでいた社会性を現代の子どもたちはうまく習得できていないのではないかという問題意識のもと、子どもたちに「遊び」の面白さを提示しようという展覧会のようです。
展示されている作家は河井美咲・梅田哲也・クワクボリョウタ小沢剛の4人。河井美咲の『毛むくじゃら』シリーズと小沢剛の『あなたが誰かを好きなように、誰もが誰かを好き』は実際に子どもたちが遊ぶことができるようになっていました。
クワクボリョウタの『10番目の鑑賞(点・線・面)』は東京ステーションギャラリーで一度拝見したことがありましたが、そこでの展示より列車のスピードが遅いように感じられました。子供向けに修正されているんでしょうかね。


個々の展示については子どもたちが作品に楽しそうに触れ合っていて、なるほどこういう光景を出現させたいのかというのがよく理解出来ました。とくに小沢剛のおふとん山では子どもたちが大盛り上がりで、ついぞ美術館では見たことがない賑やかさであり大変微笑ましく眺めることが出来ました。そういう意味では展示されている作品の有効性というのは非常によく観察することが出来ました。
これだけ子どもたちが盛り上がれるということは、この作品を複製して全国に広めていければ子どもたちが活発に動く遊び空間を増やしていけるのかななどと考えたりもしました。


一方で展覧会全体の構成としては少し物足りなさもありました。
例えば広島市現代美術館で開催中のアトリエ・ワン展も、人を集め街を盛り上げるような空間を規定するための装置を美術館で展示していましたが、そこでは人間をどのように動かそうとしているのかがある程度明確に述べられていました。
今回の「あそびのつくりかた」展は子どもたちに楽しんでもらうことを主眼においた展覧会なのだと思いますが、「どのように子どもたちを遊ばせる」というところに踏み込んでもらえると大人としてはより深い考えを得ることができたかなと思います。子どもたちはある程度自由に動いていい空間があれば自然と遊びだすと思います。そんな中でここに展示されている作品と子どもが触れ合うことでどのような化学反応が起きることを期待しているのかということがいまいち見えてこなかったです。
学校教育などでも同じですが、子供が何かをするように誘導するというのは非常に危なっかしいことであると思います。だからこそ作品を選出した意図といいますか、子供に向きあうための態度の表明みたいな物があると良かったのかなあと思います。


最後の気になった部分の記述が集めになってしまいましたが、子どもたちが楽しく遊んでいる空間を美術館の中にうまく作り上げていて、見ていて心が洗われる展覧会でした。子どもたちが居ないと少し寂しい印象になるかもしれませんが……


6月1日まで